柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの愛迫れり」2コリント5章13-15節

豊田龍彦先生が天にお召されになり今年でちょうど40年となります。直接ご存じの方も少なくなっていますが、私たちにとってはよき信仰の模範・足跡を残して下さったと思います。私自身も柏原教会の礼拝に出席し、先生がここにおられたことは大きな信仰の励ましです。また、その信仰は引き継がれて現在に至り、更には大きな働きになっていくことを期待するものです。梅原先生は告別式の式辞の中で「キリストの愛我に迫れり」(?コリント5:14文語訳)と語られましたが、今もなお私の心にも先生の面影とその御言葉が心に響きます。


1,主の熱心

豊田先生の伝道の一つの姿は「熱心さ」にあったのではないかと思います。全く中途半端ではありませんでした。神戸の神学校在学中にも逸話がいくつかありますが、暴力団抗争があったとき、ある組事務所へ伝道に行くと言われて舎監の先生を心配させられたこともあったようです。
また、羽曳野の結核療養所で伝道をされ、多くの方をキリストに導かれました。昔は、結核はまだ死の病と言われて恐れられていた時代です。主の熱心さがなければ到底できないことでありますし、また金曜徹夜祈祷の中で主のもとに召されることは自分のいのちも顧みない、その思いがなければできないことです。
パウロはここで「気が狂っているとすれば…神のためであり」と語っていますが、まさに先生の熱心さは神のためであったと言えます。パウロはかつてキリストを迫害するものですが、救いに預かることによって逆にキリストに対して熱心なものと変えられたのです。私たちもキリストにお会いすることにより人生180度変わることができるのです。私たちにも同じ信仰の熱心さを与えていただきたいものです。


2,キリストの愛

なぜパウロは気が狂うほどにキリストのために尽くしたのでしょうか。その理由を14節でのべています。「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(口語訳)「キリストの愛われらに迫れり」(文語訳)と表現されています。わたし個人としては文語訳・口語訳の言葉が好きです。
パウロの動機は、キリストの愛でした。豊田先生も同じであったと思います。大阪日本橋の教会で自分の罪が示され、真実な悔い改めを神の前になされ、償うべきは償い、お詫びすべきはお詫びされ、徹底して罪に背を向け、罪を捨て、キリストの愛に生かされる人生を始められたのです。
「ひとりの人がすべての人のために死んだ」とはキリストの十字架のことを示しています。イエス・キリストは私たちひとりひとりのために十字架にかかって死んで下さったのです。豊田先生も、都会にあこがれ上京されましたが、夢破れ、むなしい日々を過ごしておられました。しかし、大阪に呼び戻されて、教会の集会に出席されてキリストの愛に捕らえられて、素晴らしい人生を生きるものとされたのです。何よりも、十字架にイエス様は命を捨て自分を救って下さり、今もわたしを愛しておられる。先生の生き様の中にそれが現されていたように私は感じるのです。それはすなわち、キリストが先生のうちに生きておられた、そのことではないでしょうか。


3,よみがえった方のために生きる

私は神学校で学んでいたとき、向後先生から豊田先生のことを聞きました。召される前に夢枕に立たれたこと、それよりももっと印象に残っていることは、豊田先生が誤解して向後先生とはあまり口をきかれなくなったのですが、あるとき、それこそ土砂降りの中、背広姿で玄関の前で土下座してお詫びされたと言うことを聞きました。私はそのとき、本当に自我に砕かれていなかったら、ただの熱心さだけはできることではないと思いました。神学校の学びの中で豊田先生は、御言葉と神との格闘―祈りのうちに砕かれ、聖潔の恵みに預かられたことと思います。
パウロ自身も「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」と告白しています。私たちは、自分を喜ばせようとして、どれだけ心が満たされるでしょうか。それはまたむなしいものです。私たちは、自分で自分の心を満足させることはできないのです。私たちの心にはむなしい空洞があるのです。それを満たすことができるのは、神様だけです。十字架の愛こそ私たちの心を満たし、慰め励ますものです。私たち自身もパウロが告白したように、自分はキリスト共に十字架につけられた、もはや自分が生きるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのである(ガラテヤ2:20)と告白し、生きるものでありたいと思います。

        (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)