柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「しもべから使徒へ」テトス1章1-2節

この手紙は、パウロの伝道により救われたテトスに、クレテ島での伝道と教会を建てあげるために大切なことをパウロは手紙で知らせました。クレテでも様々な問題があったのですが、パウロはその解決の糸口をテトスに知らせました。


1,しもべから使徒

パウロはもともと、クリスチャンではありませんでした。彼は熱心なユダヤ教徒であり、道徳と律法を重んじるパリサイ人、そして有能な青年リーダーでした。おそらくそのままであるなら、ユダヤの国で頂点に立つ人になったであろうと思われます。 しかし彼は、クリスチャンを迫害する中で、何と復活のキリストに出会う体験をしたのです。そのことにより、彼の生涯は大きく変わりました。彼はこの世で得た地位や名誉は、塵芥であると片付けているのです(ピリピ3:8)。そして、彼はキリストの僕、奴隷となったのです。奴隷は自由がありません。主人の言うことは何でも従わなければなりませんでした。ときには命に関わることもありましたが、奴隷は命さえも投げ出さなくてはならないのです。それが、奴隷です。そして、パウロは、私は神のしもべ―奴隷であるとはっきり言い切ったのです。そして、そのように、困難や苦しみ迫害にあっても、彼は神に従って行ったのです。彼の秘訣はガラテヤ2:20にあるように「私はキリストと共に十字架に付けられた」という自分の自我が、キリスト共に十字架に死ぬ信仰があったのです。そうでなければ、困難や苦しみの中を従って行くことは、不可能です。必ず挫折します。彼が苦難をやり通すことができたのは、自分に死ぬ「磔殺信仰」があったからです。
そして、そのような人を神は「使徒」として用いられました。使徒とは、派遣されるものとの意味がありますが、誰が派遣するのでしょうか。それは、天においても地においても一切の権威を持っているキリストが派遣されるのです。そして、使徒は何を伝えるのでしょうか。それは「復活したキリスト」を宣べ伝えるのです。それが、遣わされたもの―使徒の役割なのです。
特にこのところでは、パウロは「信仰と真理の知識のために、使徒とされた」とことわっています。おそらく、テトスの伝道しているクレテの島はそれほどに、乱れ、横暴を極め、教会の中にも問題があったことでしょう。ですからこのところに、特に「神に選ばれ」「敬虔にふさわしい」という言葉を使っているのでしょう。私たちは、自分でクリスチャンになったのではありません。神様が私たちを選んで下さったのです。ヨハネ福音書15:16に「あなた方が私を選んだのではありません。わたしがあなた方を選び」とイエス様は言われているのです。
さらに、知識においては「敬虔にふさわしい」とあるように、私たちは、自分が謙遜にならなければ、へりくだった心がなければ、十字架の意味は理解できないのです。その十字架の意味を知るために、神様は私たちに試練を与えられ、まず私たちを謙遜なものにされるのです。ルカの福音書の放蕩息子は、傲慢でした。でも、彼を救うために、真実を知らせられるために、試練が与えられ、彼はやっと自分が何ものかがわかり、父の元にそして、神のもとに帰って行くことができたのです。
私たちも、敬虔を学ばせられます。神様は私たちが真に謙遜なものとなり、祝福を受けるものになるために、試練を与えて下さるのです。そのことを通して、いったい何が一番自分に大切なものであるかがわかってくるのです。


2,永遠のいのちの望み

この世には沢山の宗教があります。人々は御利益を求めています。キリスト教の御利益は何でしょうか。それは「永遠のいのち」です。この世の主権者であるサタンは、この世の国々とその栄華を与えることはできたとしても「永遠のいのち」を与えることはできないのです。しかも、サタンはやがて滅びます。第二の死と呼ばれる火と硫黄の燃えさかる池に投げ込まれるのです(黙示録20:10)。それでは、救われるためには私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス・キリストを自分の救い主であると信じることです。パウロも驚きました。最初から信じることはできませんでした。むしろ迫害し反対していたのです。しかし、復活のキリストに出会い、まったく変えられたのです。彼は救われたのです。人間は人間を救うことはできません。できるのは神だけです。
神様は、私たちに、永遠の昔から、一人も滅びないで、永遠のいのちを得る、キリストの救いを私たちに与えて下さっているのです。


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)