ヨシュアは、あのイスラエルの人たちをエジプトから約束の地カナンに導き上ったモーセの後継者です。
彼はイスラエルの人たちを指導し、カナンの先住民を追い払い、約束の地を治める者となりました。しかし、彼も老齢になり、最後の約束をイスラエルの人たちに語ったのです。
1,信仰の提示
15節の最後を見ますと、ヨシュアは民に向かって「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」と信仰の選択を提示しました。
信仰は強要されるものではありません。個人の自由があります。また、強要されて信じたとしても、恵みや祝福、感謝は感じられないのではないでしょうか。また、私たちが信仰の奴隷になることを神様は望んではおられないのです。真の神様は、私たちにご自身の子としての身分をお授けになり、私たちをキリストと共なる共同の相続人として下さったのです(ローマ8:17)。
2,主に従う
ヨシュアの問いに対して、イスラエルの人たちは、主を捨てることなどはないと答えましたが、実際はどうだったでしょうか。彼らがエジプトの地を脱出して、シナイの荒野に来たときモーセは山に登り、その間彼らは不安におののき、金の子牛の像を作って踊ったのです(出エジプト32章)。ですから、彼らの約束はまったく当てになならないのです。
神様が私たちに求めておられることは誓うことではなく、信じることなのです。イスラエルの人たちは、神に従うことなく自分勝手にしたためにエジプトで苦しみを受け、また荒野の旅においても、困難の中に不平や不満を言ってかえって呪いを受けてしまうこともたびたびあったのです。例えば、民数記21章では、毒蛇にかまれ多くの人が死にました。しかし、モーセの取りなしの祈りによって、銅の蛇を竿にかけ仰ぎ見たものは癒され、生きることができたのです。
そのようにして、イスラエルの人たちは、不従順であり不信仰でした。しかし、彼らは滅ぼされることなく、神の約束によってカナンの地に入ることができたのです。それは主の哀れみです。
このところで彼は、告別説教とも言える最後の言葉をイスラエルの人たちに語りました。繰り返し出てくる言葉は「主に仕える」と言う言葉です。この言葉の意味は、神を畏れ、神を愛し、神を礼拝することです。礼拝は英語でサービスという場合がありますが、まさに神に仕えることです。それが、祝福と恵みの原点です。イスラエルの民が栄え、敵に打ち勝ち、カナンの地を治めることができたのも、「主に仕える」という信仰の原点があったからこそです。
ヨシュアは、「私と私の家とは、主に仕える」と明確に宣言しました。私たちも彼に習い、主に仕え、この世の戦いに勝利し、感謝と喜びに満ちあふれるものとさせていただきましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)