柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主の日を待ち望む」ゼカリヤ14章1-9節

2012年が終わり新しい年を迎えますが、聖書は「全く新しい日」が到来することを語っています。それは「主の日」が来ると警告しているのです。


1,主の日とは何か。

まず第一に、主の日とは何でしょうか。一言で言うなら、キリストが再び地上に来られる日であると言えます。それは、信じているものにとっては、救いの日であり、信じないものにとっては、苦しみのとき裁きの日となります。
このゼカリヤ書はバビロン捕囚期以後、エルサレムの神殿建築の時に記されたと言われています。そして、後半部分は特に、これから後に起きることが預言されていると言われています。ですから、ここで言われていることは、過去よりもむしろ、これからの未来のことが語られているのです。ですから、私たちは注意してこれらのことを聞かなければなりません。
4節5節には地震が起きることが記されています。日本も昨年3月未曾有の大地震に見舞われました。巨大な津波が幾つもの町を破壊し、多くの人の命が奪われたのです。テレビでも津波に家や船までも押し流されている映像を見ました。また、間一髪で助かった人たちの姿もありました。それは、人ごとではなく、私たちにも起こりうることです。
ゼカリヤは、ユダの王ウジヤのときに起きた地震のことを語っています。おそらくそれも大きな地震であったと思われます。私たちも、今まで起きたことの教訓を学ばなければなりません。しかし、ここで語られていることは、普通のことではありません。神の裁きの日のことであり、おそらくは世界中に同時に起こり、誰も逃れることのできない災害であると思われます。
しかも、2節を見るならば、すべての国々がエルサレムを攻めると言うことが出て来ています。今年もイスラエルパレスチナの間で大きな戦闘がありました。しかし、ここで語られていることはもっと大きな戦いなのです。
今、エルサレム市内は比較的守られています。なぜなら、キリスト教ユダヤ教イスラム教にとって聖地だからです。しかし、終わりの時には、エルサレムを攻めるものたちが来るのです。町の半分は捕囚となるとあります。しかし、その中でも「残りの民」は滅ぼされない約束があります。レムナントと呼ばれる、小さく力のないものたちですが、神の約束の故に滅ぼされず、残ることができるのです。


2,主の日の希望

主の日は、信じないものにとっては災いの日であり、滅びです。しかし、信じるものには、幸いな日であり希望の日でもあるのです。
6節7節には、不思議な光のことが記されています。6節は太陽の光であろうと思います。7節の光は不思議です。たとえ夕方になっても、光がある。ですから、これは普通の光ではないのです。ヨハネ福音書を見ますと、それはイエス・キリストです(ヨハネ1:4、8:12)。人の光、いのちの光なのです。この方を信じるなら、闇とはならない、光の中を歩み続けることができるのです。
夕暮れ時とありますが、ある意味それは人生の黄昏時を表しているのではないでしょうか。年をとり、もう人生の楽しみは何もないと言うときが来るかもしれません。その時にこそ、実は希望の光が必要なのです。伝道の書12章1節には、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とあります。創造の神である、主を信じることです。イエス・キリストを信じるものには失望がありません。
キリストを信じる信仰から、希望がわき水のように流れ出ると8節には約束されています。イエス様は、「私の水を飲むものは渇くことがないばかりか、永遠のいのちの水がわき上がる」と約束されているのです。
そして、キリストは全世界の統治者として君臨され、治められると約束されています。黙示録にはキリストは地上に来られ、千年の間地上を治められるとが記されています。そこに本当の平和な世の中が訪れるのです。
しかし、私たちが目指すものは、この世の平和ではありません。天の御国の栄光です。朽ちず、しぼむことのない天の御国を私たちは受け継ぐことができるのです。まず、私たちはキリストから、永遠のいのちをいただき、天国を目指して生きるものとなりましょう。


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)