柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「救いの対価」民数記5章6-7節

旧約聖書民数記には、荒野の旅するイスラエルの人たちに神様が守るべき大切なことを教えられました。


1,罪を認める

イスラエルの民はエジプトで奴隷となっていました。神に祈り求め、モーセをリーダーとしてエジプトを脱出しました。壮年だけで60万余おそらく200万近くの民がいたことだろうと思われます。そこで大切なことは、「秩序」です。新約聖書に「神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」(?コリント14:33)とあります。それ故に、神様は守るべき律法をイスラエルの民に与えられました。
この聖書の箇所では、罪を犯した場合の償いについて記されています。荒野を旅する困難な生活でしたから、その弱さに負けて罪を犯す人もあったことでしょう。例えば人のものを盗んだら、弁償することや支払うことが記されています。
その前に、大事なことがあります。「自分で罪を認める」と言うことです。何よりも罪に対する自覚が大切です。その自覚がなければ、弁償することや償いは出て来ません。まず、認めることが必要になってくるのです。
なぜ人は罪を犯すのでしょうか。それは「罪を犯してもたいしたことがない」と言う思いが心の中に働くのではないでしょうか。そして、自分の欲に負けて、人のものを奪った り、迷惑をかけることがあるのです。 
十戒の中には、「隣人の家を欲しがってはならない」(出エジプト20:17)とありますが、言うなれば欲望もある意味、神の前には罪であることが解ります。真の神様を知ると自分自身がどれほど罪深いものであるかが解るのです。
そうした中に、罪から救われて、聖霊により自制心も生まれるのです(ガラテヤ5:23)。
ですから、罪を認めること、すなわち罪の自覚とは、人に対してと言うよりも、全能の神に対して「自分はどうなのか」が問われる所です。聖書の倫理観は人間の道徳よりもはるかに高いものです。私たちは、神を悲しませてはなりません。祝福を失ってはいけないのです。


2,罪に対する支払い

7節に「罪を告白」しなければならない、とあります。罪を明るみに出し、弁償しなければいけないのです。相手に対しては、全額を弁償すると共に、5分の1を加えて支払うことが記されています。
それ以外に、8節では「その者の罪の贖いをするための贖いの雄羊」という言葉があります。それは、神に対する不信の罪への捧げ物でした。
雄羊一頭は高額な捧げ物です。献げることは容易ではありません。しかし、それほど全能の神に対する不信の罪は大きいのです。そのために、荒野で大勢の民が死に絶えたことも民数記に記されています。私たちもまた、神様の祝福を回復させていただかなければなりません。エデンの園は豊かでした。アダムとエバも神様の祝福の中で生活していたのです。しかし、彼らの心に罪が入りサタンに欺かれて、神に背き祝福を失ったのです。産みの苦しみ働きの苦しみを味わうものとなりました。
私たちも今、この世の苦しみの中にあります。そして、もう一度神の元へと祝福を受けるために帰らなければならないのです。私たちの罪が赦されるために、キリストは贖いとなり十字架で死んで下さったのです。私たちの代価は払われ、再び祝福に与るものとさせていただけるのです。


              (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)