柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「信仰による義」ローマ3章20-24節

10月31日は宗教改革記念日です。今から499年前ドイツのマルチン・ルターがウイッテンベルグの城門に95箇条の抗議文を張り出したのが始まりと言われています。

当時カトリック教会は免罪符を売っていました。それを買えば罪が赦される、そんな事はあり得ません。もしそうであるなら天国は金で買える、金持ちが天国に行けるということになります。それは全くのでたらめであるとルターは抗議したのです。

それでは何によって私たちは天国に行けるのでしょうか。罪が赦されるのでしょうか。


1,律法のむなしさ

20節に律法という言葉が出て来ます。法律は人と人との間のルールです。律法とは神と人とのルールであり、人間が守らなければならないものです。それをすべて守ることによって天国に入れます。でも、20節を見ると、だれひとり神の前に義と認められない、かえって罪の意識が生じるとあります。神の律法の代表的なものは十戒です。偽ってはならない、むさぼってはならない、私たちはどうでしょうか。嘘をついたり、欲張って人のものまでも取る、罪を犯しているのです。人にはごまかしても、罪の意識が自分を苦しめることがあるのです。ですから、私たちは律法を全部行うことはできません。かえって自分はだめだと苦しむだけです。
ルターはかつて難行苦行を行って、修行に励みましたが確信は得られませんでした。しかし彼はあるとき、救いの光が与えられました。


2,信仰による義

22節を見ますと、イエス・キリストを信じる信仰による神の義、とあります。良いことをやって認められて救われる、天国に行けるようになる、と言うのではありません。それは無理だと、23節に出て来ます。すべての人は罪を犯している、神からの栄誉を受けられない、天国には行けないと言っているのです。しかし、たった一つ救われる方法、天国に行ける道があるのです。それは、イエス・キリストを信じるということです。それが唯一の救いの道であると聖書は言っています。信じるならば、義と認められる、罪は全くない、天国には入れると神様は宣言されるのです。なぜでしょうか。


3,キリストの贖い

24節に「贖い」という言葉が出て来ます。それはお金を払って、自分のものにするという意味です。お店のものを壊したら弁償しなければなりません。お金を払わなければなりません。でも、壊れたものは使いものにならないので捨てます。私たちは、罪を犯したので捨てられても同然でした。しかし、神様は捨てられなかったのです。私たちの命を贖われました。それは、キリストのいのちの代価を持って、買い取って下さったのです。そして、何と私たちを天国に入れるようにして下さったのです。それが値なしに義と認められる、神の恵みであると言うことです。十字架クリスチャン第一号は十字架につけられた強盗でした。彼もまた、イエス・キリスト信じて義と認められてバラダイス―天国に入れるものとなったのです。私たちも同じです。ルターは、義と認められるのはお金じゃない、キリストの贖い十字架によって義と認められると訴えたのです。それがプロテスタント信仰の始まりなのです。


      (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)