敬老の日は老人を敬う日として制定されました。日本も高齢化社会がどんどん進んでいます。老人に対する介護やお世話も大切ですが、むしろ老人こそ生き甲斐と希望が与えられるべきではないでしょうか。
聖書は全ての人に、希望の持てる生き方を教えてくれます。
1,老後に備える
私たちはやがて、老いるときが来ます。そのためにも備える必要があると聖書は私たちに語ります。1節を見ますと「わざわいの日」がこないうちにとありますが、わざわいの日とはまさに「老後」のことであり、私たちの避けられない時です。今は体力に自信があるかもしれませんが、人はピークを過ぎると衰えていきます。
そして、もう一つ、老いの苦しみがあります。それは「何の喜びもない」という精神的不安、心理的むなしさです。人間の老化は肉体だけにとどまりません。精神的にも不安定になる場合があります。脳の衰えによって、思考が鈍くなったり、反応が遅くなったり、様々な障害が出てきます。今は大丈夫かもしれませんが、やがて衰えるときがあるのです。
ですから、この書の著者(ソロモン)は、「来ないうちに」「近づく前に」備えなさい、準備しなさいと私たちに勧めているのです。
2,老後の楽しみ
多くの人は自分の老後を考えて、備えるのではないかと思います。家を建てたり、老後の生活のために貯金をすることがあります。しかし、大切なことは、さらにその先があるということです。すなわち、死後の世界があるのです。もし、私たちの人生すべてがこの世で終わるとするならば、あまりにも不公平ではないかと思います。それこそ、生まれつき力や才能があって、人より優れている人が幸せになり、そうでない人は不幸であると言うことになります。ですから、もし一度でも人生につまずき、失敗してしまったらもう二度と浮かばれるチャンスもない、だめな人生だったと言うことになるのではないでしょうか。
しかし、聖書は私たちに、私たちを造って下さった方がおられると言っています。「あなたの創造者」とあります。まさに、天地を造られた真の神なのです。その方は、私たちに全ての責任を持って下さる方です。
神様は私たちをなぜ造られたのでしょうか。それは、私たちを愛するものとして造られたのです。神様は人間をご自身の人格に似せて造られました。それはまた、私たちと交わるためです。ですから、私たちは交わりが必要です。
私たち人間は、愛されることに心が渇くものです。そして、心に喜びを求めます。希望がほしいのです。私たちは先のことを考えます。なぜなら、神様が私たちの心に永遠のことを考える思いを与えられたからです。
ですから、将来のことに関して安心が得たい、自分はこれで生きていても大丈夫だという確信を持たなくてはなりません。だれが、私たちの将来を保証して下さるでしょうか。お金でしょうか、家でしょうか。それは創造者である神です。お金も家も保険も乗り越えられない問題があります。それは、死です。だれが死の解決を与えてくれるでしょうか。それは、真の救い主キリストです。キリストは十字架にかけられましたけれども、死の中からよみがえられました。死に打ち勝たれたのです。そして、天に帰られました。永遠の命を保証して下さいます。「御子を信じるものは、ひとりも滅びることなく永遠の命を得る」と約束されています。
私たちの希望は、やがて滅びていくこの世にあるのではなく、全てを造られた創造者―神様が私たちのために、栄光の体と天の御国を備えていて下さっておられます。そのことを信じられる人は幸いです。私たちのわざわい「老化現象」を乗り越えて、喜びながら希望を持って生きることができるのです。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)