6月第2日曜日は「花の日」の礼拝です。もともとの起源は1856年アメリカ、マサチューセッツ州チェルシーのチャールズ・レオナルド牧師が子どもたちが信仰に励むようにと特別の礼拝を持ち、両親たちにも神様に献げるよう促したことが始まりと言われています。そして夏の花が咲きそろうこの時期に花を持ち寄り、子どもたちが花をもって病院や福祉施設を訪問することが定着していきました。日本でも明治中期頃から行われるようになったようです。
1,神は愛して下さる
野の花がどのように育つのかだれもわかりません。朝顔の観察をしたことがありますが、夜の間に成長しています。まさにそれは、人のわざではなく神様の働きであると思います。野の草でさえよく見ると非常に綺麗なものです。花びらがあり、おしべめしべが中心にあり、花びらの外にはガクが並んでいます。それは、偶然の産物でしょうか。聖書は神が造られたと言っています。素晴らしい創造なのです。
しかも、イスラエルで一番で豪勢な生活をしたソロモンでさえ及ばないと言われているのです。さらに、私たちは野の花に優っているものです。はるかにすぐれているのです。ですから、私たちは、神様によって造られ生かされている、その確信を持つべきなのです。その事を信じられるようになると、人生は変わります。すばらしいものになるのです。ソロモンよりも野の草がまさっている、野の草より自分の方がはるかに優っている、そう信じると必ず嬉しくなります。神様は私を愛して下さっている、そのように信じましょう。
2,心配無用
イエス様は、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、心配は止めなさいと言われました。心配しても、食べる物や飲むもの、着るものは得られないのです。心配したとしても、ただ時間を無駄遣いするだけのことです。自分の命を延ばすことはできません。かえって寿命を縮めてしまうことになります。
心配は、自分の健康を損ね、他人を疑い態度は否定的になり人間関係を悪くします。また、心配すると、信仰にも影響が出てきます。神への信頼が低くなり、不信仰に陥ることがあるのです。ですから、明日の心配はしてはいけません。一日の苦労は、一日で十分です。昨日のこともくよくよして背負い込み、明日の分も心配する、三日分の重荷を一日で背負い込んでしまうのです。そんなことは、止めなければなりません。
3,神の国を求める
心配しないためには、どうしたらいいのでしょうか。イエス様は、まず神の国と神の義を第一に求めなさいと言われました。
神の国は、神の支配です。神様にすべてをお任せする。それを第一にすることです。神の義とは何でしょうか。それは、神様がすべての失敗を赦して下さると言うことです。私たちは、完全に正しくはありません。過ちを犯すことがあります。しかし、神様はそんな私たちを赦して下さるのです。その明らかなことが、イエス様の十字架でした。イエス様が十字架に死んだのは、私たちの失敗過ちをすべて赦すことの表れでした。そして、神様は、私たちの身代わりにイエス様を十字架で死なせられたのです。私たちの失敗の責任をすべて負ってくださり、赦して下さったのです。
その事を信じるとき、私たちの人生は変わります。心配する人生から、心遣いの人生に変わります。心配は、自分のことしか考えない、無くなったらどうしようかと否定的人生です。しかし、心遣いは自分のことは考えない、むしろ人のことを考えて、助けてあげる便宜を図る、積極的な人生です。
自分のことだけ考えて、心配して寿命を短くするか。それともイエス様の言うことを聞いて、「神の国と神の義を第一に求め、神様が必要を与えて下さるのだ。心配することはない。大丈夫だ。」と信じて生きることができるのです。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)