柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの安らぎ」マタイ11章28-29節

日曜日は、普通休みの日です。これは聖書に起源があります。旧約聖書の中に天地創造の話があります。神様は6日間かけてすべてのものを造られました。そして、七日目を休みの日、安息日とされて、すべての働きを止めて、神様を礼拝する日とされました。それが、事の始まりです。そしてキリストの復活により週の初めに変わりました。
かつてフランス革命があったとき、休みが7日に一回は非合理的だ。10日に1回にしようと変えました。それで生産力は向上するだろうとみんな思っていました。ところが結果は逆で生産能力は急激に低下しました。なぜでしょうか。人々は疲れはて、集中力が無くなり、ケガや事故が多くなったのです。ですから、人間には休むときが必要なのです。
今の時代も同じです。休むときが必要です。それは魂安息・心の安らぎが必要なのです。まず私たちはどうしたらいいのでしょうか。


1,キリストのもとに行く

エス・キリストは私たちを招いておられます。それはどんな人でしょうか。「疲れた人、重荷を負っている人」です。キリストは「丈夫な人には医者は入らない。要るのは病人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」といわれました。ですから、どんな人でも、心が疲れ果て、心配事がある、悩みがある、そんな人はだれでも信仰を持っている人もない人も、クリスチャンであろうと仏教徒であろうと「すべての人」がキリストのもとに行くことができるのです。キリストは私たちを招いておられます。
以前、自殺の名所と言われた海岸に立て札が立てられました。すると、それ以降自殺者は少なくなったそうです。その看板にはこう書いてありました。「チョッと待て、神は愛なり」そして、教会の住所電話番号が書かれていました。人生の重荷に耐えきれなくなり、自殺しようとさ迷っていた人が、その看板を見て、自分の重荷を下ろすところが分かり、その事を通して救われた方もおられるのです。その場所はどこでしょうか。「わたしのところに来なさい」と言われるキリストのところなのです。そうするなら、キリストが私たちを休ませて下さるのです。
この、「休ませる」ということばは、もともと竪琴の弦を緩める、という意味から来ているそうです。楽器の弦もいつも張りっぱなしですと、キレてしまうことがあります。また、弦の力で楽器自身が曲がってしまうこともあります。ですから、使わないときには緩めることが必要です。
私たちの心の緊張の糸も解きほぐされる必要があります。いつも緊張していると、自分の心の糸が切れてしまい。自分自身が分からなくなります。そして、周りの人も、自分の緊張の力でもって、引っ張り回してしまうかもしれません。自分も相手も駄目になってしまいます。
ですから私たちは、心の緊張の糸をほぐしていただく。キリストのもとに来て、休ませていただくのです。


2,キリストの「くびき」を負う

そして、イエス・キリストのもとに来るならば、「わたしのくびきを負いなさい」と私たちに語られます。「くびき」とはもともと、畑を耕すときに、鋤やクワを家畜の首にかけて引かせる道具です。それは重いものであり、不自由です。私たちもまた、この世では、「くびき」をかけられ重荷を負わせられて不自由な人生を過ごすようなところがあるのではないでしょうか。
それなのになぜ、「わたしのくびきを負いなさい」と言われるのでしょうか。昔ユダヤの国で牛に「くびき」を引かせるとき、若い牛と熟練した牛をつないで、引かせたそうです。若い牛は力任せに「くびき」を引っ張り、すぐ疲れてペースが落ちますが、熟練した牛は力配分を心得ており、一定のペースで仕事を完全にこなすことができるのです。
ですから、キリストが言われる「わたしのくびきを負いなさい」とは、「あなたは一人で負っているのではない、わたしが一緒に負っているのだ。大丈夫だ、わたしがあなたと共にいる」と言うことなのです。
エス様も私たちと共に重荷を負ってくださいます。しかも、私たち以上に負ってくださるのです。


3,キリストが安らぎを与えられる

私たちは、この世で様々な重荷を背負います。しかし、イエス・キリストを信じるなら、キリストが私たちの重荷をともに負ってくださり、私たちはキリストのゆえにたましいに安らぎを持つことができるのです。
なぜなら、私たちの失敗や、あやまちすなわち罪をキリストは十字架の上で負ってくださいました。そして、私たちの身代わりとなって、罪のゆえに死ぬべき私たちの身代わりとなって、十字架の上で死んで下さったのです。すべての代価が払われました。
ですから、私たちがキリストの十字架を信じるときに、すべての罪は赦され、心に平安が与えられ、天国に入れる希望を持つことができるのです。
キリストは今も私たちを招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」


              (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)