柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「たましいに安らぎを」 コリント人への手紙 第一 11章29節

 徳川家康は全国を平定して江戸時代を築いた人物ですが彼の人生訓は「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し」とあります。なかなかまねのできることではありません。

それとは対照的にイエス・キリストは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 (マタイ 11:28) と言われました。キリストはどんなときにもどんなところでも私たちに揺るぎのない平安を与えて下さいます。


1,キリストから学ぶ

 どのようにして私たちは自分の心に魂に平安―安らぎを得ることができるでしょうか。

 第一にキリストから学ぶということです。学ぶとは、机上の学問ではありません。
本を読んで知識を得るだけのことではないのです。実際に試してみる、やってみることです。学ぶという言葉は、まねるという言葉からきたとも言われています。イエス・キリストを真似ることです。

 ある人は「人からしてもらいたいことは、同じように人にしなさい。」
(マタイ7:12) との御言葉を実行しようとしたのですが、できない。とってもできないことをキリストがなされる、改めてキリストの偉大さがわかった。と言っていました。

 愛を語ることは簡単ですが、人を愛することは難しいことです。それでもイエス・キリストは人を愛し、十字架にかかってまで私たちを愛し罪を赦されました。こんな方は他にはおられません。私たち自身の力ではできないことです。しかし私に学びなさい。私に従ってきなさいとキリストは言われるのです。

 あのガリラヤの3人の漁師、ペテロとヨハネヤコブに「あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」とキリストは言われ、彼らは真にその通りになったのです。

 最初からそうではありませんでした。ヨハネは短気で自分の言うことを聞かない村の人たちは天から火を降らせ滅ぼしてしまいましょうという人でした。
その人もキリストの十字架によって赦され、愛の人に変えられたのです。ペテロもイエス様に最後まで付いていくと言いながら、そんな人は知らないと三度までうそをつき逃げていったのです。
そんな彼をもイエス様は愛され、十字架にかかって、ヨハネの罪、ペテロの罪、また私たちの罪をも赦して下さったのです。

 

2,キリストのくびきを負う

 そして、「キリストのくびきを負う」ことです。くびきとは二頭立ての牛に鋤や鍬をつけて畑を耕作する道具です。非常に重たい重労働です。
なぜそれが心の安らぎとなるのでしょうか。ポイントとなるのは、人間のくびきではない、キリストのくびきである。というところです。

 キリスト自身はどんな方でしょうか。「わたしは心が柔和で、へりくだっている」と言われます。キリストは心が優しい、そして謙遜、どんなにだめで弱い人にも優しく接して下さり、謙って私たちを励まして下さる方です。

 くびきを負うことは、キリストにつながることです。イエス様は「わたしにつながっていなさい。そうすれば多くの実を結ぶ」と約束しておられます。
私たちが真に実りのある人生、生きがいのある生活をしたいと思うなら、キリストと共にくびきを負うことです。
なぜならキリストが共に負って下さる。自分一人ではない、キリストが私と共に負われ、しかも私が疲れ果て力がなくても、私の分まで背負って下さる方なのです。
ですから私がゼロとなってもキリストは100となって負って下さいます。私たちを背負って下さる方です。


3,キリストに委ねる

 キリストのくびきを負うことは、別の意味ですべてをキリストに委ねることです。お任せすることです。

 キリストにつながっていれば、キリストが責任を持って成すべきことを行って下さいます。
キリストに信頼するなら、魂に安らぎ平安が来ます。さらには新しい力が与えられます。
キリストにつながっていれば、ぶどうの樹のように幹から養分が与えられ枝にたくさんの実が豊かに実らされるのです。

 キリストにつながる。キリストを信じることです。そうするなら「たましいに安らぎを得ます」。



(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)