柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「罪の赦しの証人」ルカ24章44-49節

復活されたキリストは弟子たちと話をされ、天に昇られる前に約束をされました。それは過去の話ではなく、今キリストを救い主として希望をもって生きる私たちに取っても大切なことです。


1,キリストにより罪が赦される

私たちは今聖書を手にしています。聖書を読む理由は色々あると思います。西欧文化を知りたい、英語を勉強する、単なる知的好奇心等、様々あると思います。しかし私たちが聖書を読む、また読まなければならない最大の理由は47節にあります。すなわち「その名によって、罪の赦しを得させる」ということです。キリストの名には私たちのすべての罪を赦す権威と力があります。
それは、後の「使徒の働き」を見ても弟子たちがキリストの名によって奇跡や救いの御業を行っていることにより明らかです。マタイ28:18には「いっさいの権威が与えられている」とキリスト御自身が語られているのです。
すばらしいことを言っても死んでしまったら、無はありません。しかし、キリストは44節にあるように、モーセの律法、預言者詩篇すなわち「旧約聖書」に預言されていたことがイエス・キリストにおいて、ぜんぶ成就したのです。それはすなわち46節にあるように「苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり」ということにあります。すなわち私たちの罪の代価を十字架で支払い、復活によって完全に赦されたと言うことです。もし、よみがえられなかったらあの弟子たちは喜ぶことは永遠になかったでしょう。死の悲しみと後悔に包み込まれ、永遠に閉じこもっていたでしょう。しかし、キリストが死の中からよみがえられたように、弟子たちもまた復活したのです。信仰により回復が与えられたのです。「弟子たち主を見て喜べり」と聖書にあるとおりです。復活のキリストは弟子たちに笑顔を与えられたのです。


2,赦しを得る悔い改め

もう一つ大切なことがあります。それは47節にある「悔い改め」です。イエス・キリストは、悔い改めはエルサレムから始まると言われました。そこはまさにキリストが裁かれ、十字架にかけられたところです。弟子たちとしては、一刻でも早く、自分たちがイエス様を裏切り見捨てた所から去っていきたい、自分たちがもともと生活をしていたガリラヤに帰って、細々とでも漁師でもやっていたらいのではないか、そんな思いもあったのではないでしょうか。しかし、イエス様は本当の悔い改めは、逃げて行ってできるものではない、エルサレムに留まれ、そこでしっかり悔い改めなさいと命令されたのです。
弟子たちは集まりました。おそらくかつて、一緒に最後の晩餐を取り、パンと杯を分かち合ったあの二階座敷で、共に集まりひざまずいて祈ったのではないかと思います。
彼らは最後の最後まで、誰が一番偉いのかと競い合う者でした。しかし、イエス様がエルサレムに留まっていなさいと言われた後、共に祈る中に聖霊は働かれ、彼らの心のうちを探られて悔い改めに導かれたことでしょう。ペテロはイエス様を裏切った罪を告白し、ヤコブヨハネは高慢やねたみの罪を告白し、トマスは不信仰の罪を告白したことと思います。彼らは自分の罪を認め、そして十字架のイエス様に立ち返り、悔い改めて罪の赦しの確信を得たのです。


3,聖霊の満たし

そしてイエス様は彼らに「わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります」と言われました。それは、約束の聖霊であり、ペンテコステのことです。彼らはペンテコステの日、エルサレムの真ん中で立ち上がり、大胆にキリストの十字架を証しし、その日3,000人の人が一度に救われたのです。驚くべき神の御業です。どうしてそのことが可能になったのでしょうか。それは聖霊が彼らのうちに働かれたからです。
エス様は「いと高き所から力を着せられるまでは」と言われました。すなわち、聖霊が彼らに臨まれることです。それは使徒1:8にも出てきます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 そのことが彼らに成就したのです。
私たちもまたペンテコステの弟子たちのようにイエス様を大胆に証ししたいとするなら、彼らと同じようにする必要があります。もう一度主の御前に悔い改め、そして聖霊様を着せていただくのです。私たちは御聖霊にまったく覆われ、隠され用いられることです。エペソ6:11にもあるように、武具で身を固めるように私たちは聖霊様により守られなければこの世では勝利はありません。
聖霊に満たされるとき私たちは力を受け、弟子たちが変えられたように、私たちも救い主イエス・キリストの証人となることができるのです。


             (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)