イースターは喜びの日です。感謝の日です。なぜなら、イエス様が死の中から復活された日だからです。イースターがあって、キリスト教が誕生したと言っても過言ではありません。今日は、このキリストの復活について共に考えて見たいと思います。
1,生きることを考える信仰
信仰は生きている人間のことに関するものであり、私たちを生かす信仰が大切ではないでしょうか。
いくらすばらしいことを言っても、死んでしまったら人生終わりです。しかし、キリストは十字架で死なれたけれども、死のなかからよみがえられました。
死んだ人は何もできません。しかし、死のなかからよみがえられ、死に勝利され、復活のいのちを与えることのできるイエス・キリストは真に私たちを生かして下さることができるのです。
2,信仰の父アブラハム
キリスト教信仰の始まりは、アブラハムに由来します。彼は初めから神様を信じていた人ではありませんでした。偶像礼拝の盛んなメソポタミアの出身でした。 彼はあるとき神の声を聞き、神が示される土地に向かって旅をして行きました。そして、彼は神によって約束の地で豊かな人生を得ることができたのです。
彼は、行いによって神様に義と認められたでしょうか。そうではありませんでした。彼は不祥事を行っています。神様はご存じです。彼だけではありません。今も多くの人から愛されているダビデというイスラエルの王様も大変な罪を犯しました。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである」と言っています。
私たちが救われる、すなわち天国に行ける方法は「よい行いをする」ことによるのではありません。私たちは生まれながらに罪人です。よいことをしたいと思ってもできないのです。かえって悪いと思うことをしてしまっているようなものです。
なぜアブラハムは神様に認められたのでしょうか。たとえ自分は駄目であっても、それでも約束して下さった神を信じるという信仰があったからです。彼は100才にして子どもが与えられました。奥さんも90才を過ぎていました。彼は「サラの胎の死んでいることを認め」と聖書にあります。それが事実です。それでも彼は全能の神を信じたのです。奇跡が起きました。死んだ胎に赤ちゃんが宿ったのです。まさに、死んだ人が復活するに匹敵ような話です。彼らは信じることによって、神様の大いなる祝福に預かったのです。
3,復活―私たちの喜び
神様が約束されたことを必ず成し遂げると信じるのは彼だけではありません。私たちも信じるなら、アブラハムと同じような祝福つまり豊かさを享受することができるのです。
イエス様の弟子たちはどうだったでしょうか。三年半も一緒にいながら、最後にして信じられなくなってしまったのです。イエス様が捕らえられるゲツセマネの園でも、一緒に目をさまして祈って欲しいとイエス様が言われたのに一時も祈ることができませんでした。そして最後には全員見捨てて逃げてしまったのです。それが彼らの姿でした。
しかも、復活されたその日、マグダラのマリヤも最初信じられませんでした。ほかの弟子たちも同じです。しかし、彼らの閉じていた部屋の中にキリストは入ってこられ、御自身の傷跡を見せられたとき彼らは信じたのです。そして後、彼らは復活のキリストを証しするものとなったのです。
もし、復活がなければキリスト教は始まりませんでした。教会も建つことはありませんでした。しかし、教会は建てられ、なおも私たちはキリストのよみがえりを信じ証ししています。そして私たちの信仰の先輩すなわち諸聖徒たちもよみがえってもう一度会うことができる。何という大きな希望ではないでしょうか。
そして、私たちにも喜びが与えられるのです。それは、私たちの失敗や過ち、すなわち罪がすべてキリストの十字架で赦され、キリストのよみがえりを信じることによって私たち自身が神に義と認められる。受けいれられて神の子となり、天の御国に永遠に住むことが許されるのです。なんと幸いなことでしょうか。ただキリストを信じることによって、この希望、喜びが与えられるのです。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)