柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「復活の証し」ルカ24章25-35節

先週は、イエス・キリストが死のなかからよみがえられた、イースターをお祝いしました。私たちに取ってはなくてはならない大切なときです。なぜなら復活には希望があるからです。


1,心の目が開かれない

エス様の弟子たちは最初、イエス・キリストの復活を信じることができませんでした。三年半も寝起きを共にし、病の人をいやされ、5,000人の人に食べ物を与えられた奇跡をみても、彼らは信じられなかったのです。
復活された日曜日の朝にマグダラのマリヤは出かけていき、イエス様の復活を告げましたが弟子たちは直ぐに信じられませんでした。ところがこの話はどんどん伝わっていったのです。そして、復活のキリストを目撃した人たちが現れました。ここでも、エマオに行くふたりの人が復活のキリストに出会ったのです。
旅の途中で、見知らぬ人に出会い彼らは道々復活の話をしました。ところがその人は、預言者たちの言ったことすなわち聖書全体から、キリストの十字架と復活のことを説明されたのです。聖書はいったい何が書いてあるかというとヨハネ5:39には「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」とあり、聖書はイエス・キリストのことを証ししているのです。彼らが理解できなかったのは、「心が鈍かった」(25節)からなのです。


2,心が開かれる

しかし、そのふたりの人はわからないままで終わりませんでした。村に着くと、彼らはその人に強いて泊まって下さいと願いました。
そして、夕べの食卓に着かれるとその人はパンをとって祝福し、彼らに渡されたのです。そのとき彼らはわかりました。それは復活のキリストであることがわかったのです。
パンをとって祝福し渡されたことには大切な意味があります。それは、一つには聖餐式を表すものです。キリストが十字架にかけられる前に、弟子たちとともに最後の晩餐をとられました。そのとき、パンを割いてこれは私の体である。これを記念して行いなさいと言われました。私たちも聖餐式でパンを割き、キリストが十字架の上で釘付けにされ、からだを裂いて、血を流されたことを思い出します。それは、私たちのために身代わりとなり、いのちを捨てて下さったのです。私たちは今もそのことを覚えて教会でおこなっています。
そして、イエス・キリストは御自身を「いのちのパン」であると言われました。私たちはいのちのパンすなわち神の御言葉によって私たちの魂そして心が養われるのです。私たちは、毎週礼拝に出る必要があります。まず、神のことばにより私たち自身が養われ整えられることです。
ふたりの人たちは解りました。パンを割いて渡して下さったのは死のなかからよみがえられたイエス様であることを。


3,心が燃やされる

しかし、イエス様だと解ったときその姿は見えませんでした。それでも彼らの思いは喜びに満たされていました。それは、道々聖書の話をして下さっていたときに、彼らの心はうちに燃えたと彼らは証ししたのです。
私たちも、聖書を読むとき、イエス様が語って下さる。そのことを覚えつつ読むならばなお、聖書の言葉が生き生きとし、意味あるものとなり、神の励まし―心が燃えてくることを実感できると思います。
彼らはそのことがわかったとき、いてもたってもいられませんでした。すぐさまエルサレムに戻って、使徒たちに報告したのです。ところが着いたとき、使徒たちもまた復活のイエス様はシモン・ペテロにも現されたと目撃の話題でいっぱいでした。もちろんクレオパたちも、イエス様は自分たちにも現れてパンを割いて下さった事を証ししました。彼らは復活のイエス様にお会いして喜びに満たされたのです。
私たちもまた、信仰によってその復活のイエス様にお会いすることができるのです。

            
               (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)