柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛の分かち合い」1コリント11章23-24節

わたしたちの教会では毎月第一の日曜日に聖餐式があります。クリスチャンにとって大切な儀式は二つあると言えます。一つは、イエス・キリストを信じて受ける洗礼式であり、もう一つはこの聖書の箇所に出てくる聖餐式です。
なぜクリスチャンになったら聖餐式を受けるのでしょうか。そこには大切な意味があるのです。


1,キリストの愛を覚える

エス様は最後の晩餐の時に、十二人の弟子たちにパンと杯をもって、「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われました。パンと杯は何を表しているでしょうか。それはキリストが十字架の上で裂かれた肉体と、流して下さった血潮を表すものです。
キリストはなぜ十字架に架けられたのでしょうか。それは、自分が行ったことに対しての報いではありませんでした。キリストは聖書を見るならば、また他の文献を捜してみても何一つ、十字架に架けられて殺される理由を私たちは見つけることはできません。
キリストが十字架に架けられたのは、私たちの罪を赦すためでした。イエス・キリストこそ、父なる神が私たちを罪から永遠の滅びから救い出すために遣わされた神のひとり子、救い主なのです。聖書には「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)とありますように、罪を犯す人間には必ずその報いがあるのです。いったいだれが私たちを罪から救うことができるでしょうか。それができるのはイエス・キリストだけです。
おぼれている人が、同じおぼれている人を助けることができないように、罪人である人間が、同じ罪人を無罪放免にすることはできないのです。
しかし、キリストは全く罪を犯さず、むしろ私たちの罪をその身に背負って、代わりに死んで下さいました。そのキリストを信じるなら私たちは、罪が赦され無罪放免となり永遠の滅びから救われるのです。聖餐式はキリストの愛と赦しを覚えることです。


2,神を侮ってはならない

聖餐式は、洗礼を受けた人でしか与ることはできません。もし聖餐式でパンとブドウ汁を受けたいとするならまず、洗礼を受けることです。洗礼は自分がイエス・キリストを信じていることの証しです。
それは先ほど述べたように、キリストの十字架によって自分はすべての罪が赦されたんだ、永遠のいのちが与えられて救われたんだという自分の信仰の証しです。そして、洗礼を受けたクリスチャンは、この聖餐式を通して、キリストは私のために死んで下さったんだ、私のために十字架に掛かり、肉を裂き血を流されたんだと自らが受けることによって証しすることなのです。26節には「主の死を告げ知らせる」とありますが、イエス様の十字架の死を証しするのです。
ですから、聖餐式はある意味、厳かなものです。厳粛なものなのです。軽々しい気持ちでするべきではありません。もしあなたが、自分のためにいのちを捨てて助けて下さった方があったなら、その人のことを思い出すときにはどうでしょうか、おそらくは心から感謝すると思います。聖餐式も同じです。私のために命を捨てて下さったキリストを思い出し、感謝を献げることなのです。キリストは「わたしを覚えて」と二度言われたのです。命を救って下さった方をはっきりと覚えるのです。
コリントの人たちには問題がありました。当時聖餐式は、愛餐会と一緒に持たれました。それはユダヤの過ぎ越しの祭りと関係があると思います。食事と一緒に過ぎ越しの祭りを祝うのです。
コリントの人たちに中には、我さきにと食事をする人たちもいたようです。彼らは主の聖餐を軽んじました。むしろ空腹を満たすために集まっていたようです。その結果どうなったでしょうか。「死んだものさえあったのです」(30節)私たちは神を侮っては行けません。そして、主の聖餐に与るときまず、自分が何物であるか吟味する必要があります。そして、主の聖餐、すなわち十字架の罪の赦しを受けることができるのは何と幸いかと感謝することです。


3,愛の分かち合い

33節を見ると「待ち合わせなさい」とパウロは勧めました。我さきにと、食事を争って食べるのではなく、むしろお互いに助け合い愛をもって支え合うことです。しかもその愛は、博愛という人間的な愛ではなく、むしろアガペーの愛、神の愛なのです。「すなわち主は私たちのために命を捨てられた、それによって私たちは愛ということをしった」と聖書にありますが、キリストの愛を分かち合うことです。それを覚えて、行うことなのです。
先日私は英国の教会に行きました。オンスロー・スクエアー聖パウロ教会ですが、そこでも聖餐式に与ることができました。人種を越え、教派を超え男女の区別や年齢の区別もなく共に聖餐式に与りました。かつてこの教会でバックストン先生が奉仕をされ、聖霊バプテスマを経験され、聖潔の恵に与られたのかと思うと感慨無量のものを共に感じさせられました。
その教会の兄弟姉妹方も大変温かく迎え入れて下さり、感謝でした。
私たちも、聖餐式を通して、キリストの救いに与ったことを喜び、そして、受けるだけでなく与えていく、キリストの死をこの身をもって証しするものとさせていただきたいと思います。

 
                (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)