柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「義と認められる幸い」 (ローマ4章1〜8節)

ここに「義」という言葉が出てきます。正義の「義」です。正しいという意味があります。おそらく多くの人は、天国に入れるのは正しい人だと理解しているのではないでしょうか。間違いではありません。しかし、それを自分に当てはめるなら私たちは天国に入れるでしょうか。天国に入れるほどの正しい人間だと確信があるでしょうか。聖書を見るなら、だれが天国には入れるかわかります。

1,信じて義と認められる。 
ここにアブラハムと言う人が出てきます。彼は「信仰の父」と呼ばれています。2節を見ると、行いによって彼は義と認められたのではないことがわかります。確かに彼は、神様に従って生まれ故郷を離れ父と別れ、神様の導きに従って祝福―神様の与えられる幸い―を受けました。しかしそれは行いによるのではありません。信じたことの結果によるのです。
 彼はなかなか子どもが与えられませんでした。そして、奥さんの勧めもあって側室を得ました。そして子どもが産まれたのですが後に家庭不和が起こり、その女と子どもは家から出なければならなくなったのです。ですから、アブラハム自身は完璧な人ではありませんでした。しかし、それでも彼は神を信じたのです。
なんと、彼はその失敗を犯す前に神を信じていました。そして神様は彼を「義」と認められたのです。それは創世記15章の前半に出てきます。そしてローマ4:3は創世記15:6の言葉です。彼は神様が星の数ほど子孫を多くすると約束されたことを信じました。後で失敗しても神様は彼を憐れまれたのです。そして、彼は神様の愛に応答して、神様が「ひとり子イサクを献げよ」と言われたとき、神を信頼してイサクを献げたのです。神は星の数ほど子孫を与えることを彼は信じました。無から有を生み出す神、死の中からもよみがえらせる神を信じたのです。(ヘブル11:17、18)

2,罪が覆われ義と認められる
 次にダビデと言う人が出てきます。彼も旧約聖書に出てくる人で、羊飼いからイスラエルの王様になった人です。彼もまた真の神様を信頼する人でした。
 彼もアブラハムと同じように失敗した人です。彼は自分の部下の奥さんを好きになり、ついには子どもが産まれることになりました。それを隠そうとして忠実な部下を激戦地に送り、討ち死にさせたのです。
 神様は心を痛められました。そして預言者ナタンを送り、彼は「富める人が自分の羊を惜しんで客がきたとき、隣の貧しい人のかわいがっていた羊を殺して、食べてしまった。どうしますか」とダビデに尋ねました。彼は「殺してしまえ」と答えました。「それはあなたです」とナタンは答えました。そしてダビデは自分がどんなに恐ろしい罪を犯したかがわかり、家来たちのまえで、服を裂き自分の罪を悔い改めたのです。それに対してナタンは神が罪を赦されたことを宣言したのです。7節の言葉は詩篇32篇に出てきます。私たちも自分の罪を言い表さないで隠しているなら、きっと苦しいと思います。新聞記事で窃盗の常習犯が逮捕され、取り調べで全部自供したとき楽になったとありました。心に罪を隠し持ったままでは、私たちの心も身も疲れ果ててしまうのです。平安も喜びもありません。おそらくダビデも罪を隠していたとき、心には安らぎも感謝もなかったであろうと思います。
 6節には、行いとは別の道で神によって義と認められるとあります。私たちはたとえ自分ができなくても、神に義と認められる方法があるのです。それは7節に「不法を赦され、罪をおおわれた人」とあります。神が私たちの不法を赦して下さり、罪を覆って下さるのです。
 義と言う漢字を見ますと、我の上に羊がかぶさっています。つまり、神の小羊であるイエス・キリストが私たちを覆いかぶさって下さり、神の怒りを身に受けて救って下さるのです。イエス・キリストは私たちの代わりに十字架につけられました。ムチでたたかれ、あざけりを身に受け、ののしられ裸にされて十字架に釘打たれたのです。私たちの受ける裁きを一身に受けて下さいました。その犠牲の愛によって私たちは赦されたのです。義と認められるとは、私たちの行いではない、私たちを愛し赦して下さる神を信じる、その信仰によって義と認められることです。私たちも信仰によって天国に入れることができることを感謝したいと思います。
                  (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)