柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の栄光のために」第1コリント7章1-7節

                                   
きょうは「神の栄光のために」と言うテーマで、先月に続くところを学びます。

使徒の働き4章25節には 「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。」 と言って、詩篇の言葉を引用しています。
わたしたちは、コリントの手紙など、パウロが書いたと考えられるところを学ぶ時には、パウロがこのように語っています>と言うように表現します。また福音書を学ぶときには、<マタイが言っている>とかヨハネが語っている>と言いますが、正しくは、<彼らの口を通して聖霊が語っておられる>と言うべきなのでしょう。ですからきょうも、パウロの口を通して聖霊が、すなわち神が語られる言葉を聴くのです。これは聖書を学ぶ上でのまことに初歩的なことですが、また最も大切なことでもあります。
ところで 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる。?テモテ3:15」 と記している通り、これは救いの本です。
聖書は、いわゆる人生について教える本、生活指導の本ではありません。勿論、人間の救いについて教えるために、その生活の仕方に触れないわけではないのですから、その意味で、聖書を人生の指導書とすることも間違いではありませんが、どこまでも救いを得させるための信仰指導者であって、いわゆる人生の指導書というhow toものの役割を負うものではない、ということを忘れてはならないのです。ですから、気紛れに開いたところを指差して、そこから導きを得ると言うような聖書の用い方は意味を成さないのです。


1.不品行について


7章1節には 「あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが」 と記されていますが、この手紙は、コリント教会のさまざまな問題について、その情報がパウロにもたらされ、それに答えたものです。 その手紙には何が書かれていたかと言えば、「実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。あなたがたの間には争いがあるそうで 1:11」 と言うことでした。
そこで最初に取り上げたのが派閥争いの問題ですが、続いて不品行の問題、次に8章では偶像の問題が取り上げられ、9章では働き人すなわち伝道者の問題、続いて賜物のこと、死後のこと、献金のことなどを取り扱っています。一見、生活指導のように見えますが、これらのことを信仰的にどのように解決すべきかを語ります。すなわち救いに結びつく解決法についてです。
さて、不品行についての信仰的見解・信仰的解決ですが、その結論は「男が女に触れないのは良いことです。1」と語ります。
これは禁欲的な見解と見ることもできるでしょう。禁欲生活が信仰を強くするという考え方は、常に宗教と係ってきました。キリスト教にもそのような考え方に立って、それを勧めてきた歴史があり、現にその立場を堅持している人々もあります。
どうもパウロ自身も独身を貫いた人のようです。しかし、パウロはすべての信仰者に禁欲生活を勧めているのではありません。ですから 「不品行を避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。2」「結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。8」 と言います。
ここから結婚生活とはどのようなものか、という生活指導的なことを導き出すことは無理なことで、ここでは不品行な生活をしないためにはどうしたらいいかと言うことを語るわけです。


2.神の栄光のために


創世記によりますと、神は 「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。2:18」 と言って、最初にさまざまな動物を造られますが、それがふさわしい助け手とはならず、最後に女を創造されたのです。ですから男と女の共同生活は、創造の摂理なのです。そこには意義深い生活があるはずです。こどもを産み育てることや、共に働くことと、それに伴う喜びと悲しみもあるのです。
しかし、ここではそのような結婚生活の一般について語っているのではなく、不品行な生活をしないためにどうすればいいかと言うことを語ります。ここで考えていることは、人間の神に対する責任、すなわち神を喜ばせているか、神の栄光を現わしているかと言うことです。
6章では 「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。20」と勧めました。それなら 「男が女に触れないことは良いことです。1」 と言うだけでは解決にはなりません。創造の摂理、すなわち神が人を男と女に創造されたことの意味が無視されてしまうことになります。また結婚することが不品行であるかのような誤解さえ与えかねません。そこで、人間本来の使命である神の栄光を現わすと言うことを、創造の摂理に従ってどのように実現するのかと言うことを語るのです。


3.結婚生活を通して


結婚生活では、自分の体は自分の自由にできると言うものではなく、互いに相手のためにある、と言うことを経験するのです。妻のために生き、妻のために働く。夫のために生き、夫のために働く。こうして相手の喜びとなるように生きる、ということを経験します。
ですから、人生は自分のためにだけあるかのように思っていた者が、結婚生活を通して、他の者のために生きる喜びを経験するのです。
しかし、信仰はただそこに止まるのではなく、その結婚生活を通して自分の体が妻のために、夫のためにあると言う以上に、神のためにあるということに気付かせられるのです。たとえ独身者でも、その人生は自分のためにだけあるのではなく、神のためにあると言うことを気付かせるのが信仰です。
ですから、人生の最優先事項は神の栄光、神のために生きることです。
そして、結婚生活の優先順位は 「互いの権利を奪い取ってはいけません。(互いに拒んではいけない 口語訳)5」 と言って、自分よりも相手を優先することを語りますが、それ以上に神を優先するために 「祈りに専心するために 5」 と言います。結婚生活といえども、まずいのりが第一、すなわち神との関係が最優先されるべきであることを語ります。 
ですから信仰による独身生活は、禁欲によって信仰を強くすると言うことではなく、神を第一とする生活を、身をもって示しているとパウロは自覚していたのです。ですから 「私のようにしていられるなら、それがよいのです。8」 と言っているのです。
 
4.神を第一とする

イスラエルには、ナジル人と呼ばれる人が存在しました。これは、その帰属する国を表す言葉ではなく、生涯その身を神に捧げた人をこのように呼んだのです。たとえばパリサイ人とか、サドカイ人と言うように。
サムエルの母ハンナは、サムエルの誕生にあたり、ナジル人の誓いを立てます(このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。?サムエル1:11)。こうしてサムエルは、生涯剃刀を当てないとの誓いの内に誕生し、髪も髭も伸び放題にしたのですから、成人した彼の姿は異様なものであったと思われますが、人々はその姿を目にして神に捧げられた人の存在に気付き、同時に自分たちも神の民であることを絶えず思い出したのです。
同じように、信仰によって神に身を捧げた人の存在は、その人自身だけではなく、その存在を通して、神の栄光のために生きること、神を第一とする生活を知って、自らの生活を正すのです。
そこで 「以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに生き方があります。6〜7」 と語るのです。
いろいろな生き方、生活があっていいわけで、すべての人に独身を強要するのではなく、要するに、人は神の栄光を現わすために生きているのであって、自分の欲望を満たすために生きているのではない、と言うことです。
先にもお話しましたように、キリスト者の自由、救われた者の自由をはき違えて、何でも許されているように思い、不品行でさえも許されているかのように、勝手な行動をする者がコリント教会の中に出てきたわけです。そこで、結婚している者も、独身の者も、その与えられた立場で、神の栄光のために生きなければならないことを勧めているのです。
最初に申し上げたように、ここでは結婚生活の仕方を語ろうとしているのではなく、結婚生活であれ、独身生活であれ、人は不品行に身を委ねず、神の栄光のために生きるようにと語っているのです。
聖霊は、きょうもパウロを通して「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と語っておられるのです。わたしたちの 家庭生活が、神の栄光となるように、社会にあっての歩みが神の栄光となるように、互いに祈りつつ過ごしましょう。


                           (説教者:六甲みどり教会 牧師  岸本 望 師)