柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「この身と魂をもって」 第1コリント6章12-20節  

                                    
きょうのテーマは「この身と魂をもって」です。これは含みのある表現ですが、すでに皆さんが十分承知しておられるように、これに続く言葉は「神の栄光をあらわす」です。
コリント人への手紙には、当時の実情を知らなければ分からないことがいくつも記されています。この箇所もその一つと言えるでしょう。「あなたがたは、代価を払って買い取られた20」は、その最たるものです。それだけでなく、「あなたがたのからだはキリストのからだの一部分である 15」とか、聖霊の宮 19」と言うことは、漠然とは分かっても、初めて聖書を読む人には理解しにくいことではないでしょうか。
しかし、ここには「あなたがたは・・・知らないのですか 19」と記されています。この表現は、6章に三度も出てくる表現で、クリスチャンなら知らないはずはない、よく知っているはずだ、と言いたいのだと思います。そこには、これほど分かりきったことを、とか、こんなに重要なことを、と言うニュアンスが響いています。


 1.キリストの肢体

では、わたしたちキリスト者が知っているはずの重要なこととは何でしょうか。その第1は、キリストの肢体とされていると言うことです。
その前に「すべてのことが私にはゆるされたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。12」と記されています。このことばは、当時の教会においてよく使われていた言葉ではないかと考えられています。
10章23節にも、再び出てくるのですが、コリント教会では、何かと言えばこの言葉を用いたのでしょう。それをパウロも使っているわけです。これは自由ということを語っているのだと思います。
キリスト者の自由”と言えば、ルターの名著ですが、確かにキリスト者には自由が与えられています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ガラテヤ5:1」と記されている通りです。
ところが、キリスト者の自由をはき違えて、好き勝手に、わがままに振舞う自由を主張する人が居たのではないでしょうか。
しかし、それは自由と言いつつ、要するに自分の欲望を抑えることが出来なくなっている人々が居たと言うことです。そうなるとそれはもはや自由ではなく、欲望に支配されているに過ぎないのです。そこで「すべてが益になるわけではありません。…私はどんなことにも支配されはしません。」と言わなければならなかったのです。ガラテヤ人への手紙には「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。5:13」とさえ記されています。
コリントの教会では、すべてのことが許されて自由だと言われると、それを肉の働く機会としてしまって、不品行が行われていたのです。
そこで信仰生活を主の甦りに結び付けて語ります。
使徒信条では、“からだの甦りを信じる”と告白しますが、ここでも、キリストを甦らせてくださった神は、わたしたちをも甦らせてくださるといいます。その甦りにあずかるわたしたちの体は「キリストの肢体」とされた存在であることを想起させているのです。そして、キリストの肢体としてすでに甦らせられているのだから、良い実を結ぶのです。
わたしたちは、信仰をどうしても心情的なこと、あるいは知識的なことと考えがちです。実際はそうではなく、この身も魂もキリストに結びつくことです。
この結びつきを、夫婦の関係になぞらえて「ふたりの者は一心同体となる。16(創世記2:24)」という言葉を引用します。
キリストのものとなったこの体を、この世の楽しみ、ましてや不品行のために用いることなど論外なのです。なぜなら、救われた者はキリストと一体とされたのですから、他の者に心を許さずキリスト一筋に生きるのです。それが信仰と言うものです。


 2.聖霊の宮

そこで次に、キリスト一筋に生きるべき根拠を語ります。それがわたしたちの承知しているはずの重要な第2のことです。すなわち、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。19」と。
聖霊の宮」とは、神のみ住まいのことです。わたしたちの体は、聖霊なる神のみ住まいであると言うのです。聖霊なる神がわたしたちの内に住んでいてくださるのです。そうであるなら、わたしたちは自分の体を神のみ住まいとして扱わなければなりません。すなわちわたしたちが信仰を持って生きるとき、その体は聖霊の宮なのです。ですからそれにふさわしい生活をしなければならないのです。その体を汚すようなことは出来ないのです。
「宮」と言えば、そこでは人々が神を礼拝するのです。ですからわたしたちの生活を見て、聖霊なる神が働いておられる、神が共に居られる、ということを悟ることが出来るようでなければならないのです。
この聖霊について「神から受けた 19」と記されています。神は、聖霊をわたしたちの内に住まわせて下さり、その力を発揮させて下さるのですから、わたしたちが力み返って何かをするということではありません。
パウロは、ガラテヤ人への手紙で「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。2:20」と言っています。わたしたちも同様に、生きているのはわたしではない、キリストが生きておられるのですと信じるべきなのです。それは、人々がわたしたちを見て、聖霊の力、神の力を崇めるようになるために聖霊が内に住んで下さるのだからです。
その結果とでも言うのでしょうか、当然の帰結として「あなたがたは、もはや自分自身のものではない 19」と言います。なぜそれが当然の帰結かと言いますと、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。20」と記されています。


 3.買い取られた者

キリスト者が当然知っているべき重要なことの第3、すなわちキリスト一筋に生きる根拠は、「買い取られた」者と言うことです。これこそよく分からないことの一つですが、当時のコリント教会の人々にはまことによく分かるお話しでした。
当時のコリントは、自由人が20万人、奴隷が50万人だったと言われています。ですから、教会には奴隷も自由人も居たのです。要するに、売られた人も居れば、買った人も居たわけです。ですからこのような話は自分の身に引き比べてよく分かったことと思います。
奴隷が買い取られるとどうなるかと言えば、主人が変わるのです。今までしてきたことは意味を成さなくなり、全く新しくされるのです。
同様に、あなたがたは代価を払って買い取られたといいます。たとえ社会的に自由人といえども、信仰の上から言えば、買い取られた者という点で奴隷と何ら変わりません。代価を払って買われた奴隷は、新しい主人の奴隷となります。今までは罪の奴隷であり、罪に支配されて生きてきた者が、神に買い取られたために、いままでしてきたこととは関係がなくなり、神のために全く新しい歩みをしなければならないのです。
この「代価」は“高い代価”の意味だといいます。どれくらい高いのかと言えば、神の御子イエス・キリストという代価です。
たとえその支払われた代価が安くても、奴隷は自分を買い取った主人に従うことに変わりはありません。しかし、高い代価で買い取られた者は、それだけ主人の期待が大きいわけですから、その期待にしっかりと応えなければなりません。最高の代価である御子イエス・キリストによって神に買い取られた者は、ただ一筋に、自分のすべてを投げ出して新しい主人である神に仕えなければなりません。
そこでパウロ「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。20」と言うのです。12節から、しきりに体のことを語ってきましたが、要するにこれが言いたかったわけです。
「からだをもって」と言うことは、最も具体的にと言うことです。
すなわち「からだをもって神の栄光を現わす」とは、具体的に神が人々に分かるように生きる、と言うことです。信仰とは観念的なことではなく、自分の体で、神が世の人に分かるように生きることです。
そこで、神の栄光を現わす最良の道は、自分を誇ろうとしないことです。わたしたちのうちには、自分を大きく見せたい、自分をひけらかそうとする傾向があります。傾向と言うよりも誘惑があると言ったほうがいいでしょう。絶えず襲ってくる誘惑とでも言うべきでしょうか。それに打ち勝たなければ、神の栄光は現われません。
そのためには、自分が何者であるかと言うことを知らなければならないのです。わたしたちは、神の御子イエス・キリストという最高の代価を払って買い取られた神の奴隷なのです。それだけに神ご自身の期待も大きいと言わなければなりません。期待して下さる神に応えるために、この人生が与えられていることを自覚し、この身と魂をもって神の栄光を現わす者としての生涯を全うしたいものです。


                  (説教者:六甲みどり教会 牧師  岸本 望 師)