柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の豊かさにあずかる」  エペソ1章7-14節

クリスチャンになると、金持ちになれない、だからなりたくないという人がいますが、多分にそれは誤解であると思います。たとえばマタイ25章には、タラントのたとえをイエス様は話され、倍に儲けた人たちをほめていることが出ています。正しいことをして儲かったらそれでいいのです。
神様は私たちに、貧しい生活を強いるために救われたのではありません。ヨハネ10:10で言われたように、いのちを得て豊かになるためです。それはただ、物質的な豊かさだけではなく、霊的な豊かさ、心の豊かさも含まれています。そして私たちは神の豊かさにあずかることができるのです。神の豊かさとは何でしょうか。


1.罪が赦されることです

7節に「罪の赦しを受けている」とあります。クリスチャントは何かというと、まじめな人のことではありません。実は罪が赦された人がクリスチャンなのです。ですから、極端に言えば別にまじめでなくてもかまいません。完璧にできていなくてもだいじょうぶです。ただ一番大事なことは、「その血による贖い、罪の赦しを受けている」と信じる人、それがクリスチャンです。
イスラエル人は不思議な民族です。歴史を見ると、何度か滅ぼされかけました。それでもイスラエルの国が再び建てられました。「イスラエルは贖いの民」と言われます。かつてエジプトで奴隷になっていたとき、神に叫び、神は彼らの祈りを聞かれました。そして、エジプトから救い出されたのです。そのとき、天からさばきの御使いたちがやってきて、エジプトの国中の初子を打ちました。エジプト全土に大きな叫びがあがりました。しかし、イスラエルの人の家はだいじょうぶだったのです。それは家の戸口に小羊の血が塗られていたからです。そして今でも、その救われたことを記念して、過ぎ越の祭りを行っています。
更に私たちが、罪から、永遠の滅びから救われるために神様は何をして下さったのでしょうか。その独り子である、神の御子イエス・キリストを十字架に掛けて、私たちの身代わりとして下さいました。私たちが生きるために、イエス・キリストは犠牲になって下さったのです。
 食育という言葉を聞いたことがあります。知識も大切ですが、食べることは生活の基本です。ある小学校で、食育の一環として鶏を飼ったそうです。業者からひよこを買い、子どもたちに育てさせました。それぞれに名前を付けて大切に飼ったそうです。しかしそれが大きくなったとき、それを潰して食べることになりました。子どもたちは涙を流しました。でもチキンライスは美味しく食べたそうです。そして改めて、いのちの大切さ、そのいのちによって自分は生きていることを知ったそうです。
私たちは、キリストのいのちによって生かされています。さばかれるべきものが赦され、生かされている。このことを感謝して受け止めたいと思います。


2.聖霊による豊かさ

神様は私たちに、赦しの恵みを豊かに与えて下さいます。それは8節をみますと、「私たちの上にあふれさせて」とあります。私たちの心に満たされるだけではなく、溢れさせる程に神様は豊かに恵みを注がれるのです。それはまさに聖霊の働きです。「知恵と思慮深さ」がカギの言葉です。17節を見るなら「神を知るための知恵と啓示の御霊」とあります。聖霊は私たちの心の内に働かれ、神の豊かさを見させてくださいます。それはこの世の栄光栄華をはるかにしのぐものです。その栄光を見た人たちは、このパウロや黙示録を書いたヨハネ、最初の殉教者ステパノなど枚挙にいとまがありません。そして私たちも御聖霊によって、救いの啓示をいただくことができます。心の目が開かれて見えるようになります。18節を見ますならば、パウロはそのことを私たちに願っているのです。願わくば、私たちの心の目が開かれて、天の栄光を見るものとさせていただきたいのです。それは10節にあるとおり、ときが満ちて実現するときがあるのです。天にあるものも地にあるものも全てが、神の御前に相集う驚くべき恵みが展開されます。それも聖霊によって知りうるのです。
聖霊は私たちに希望を与えられます。それはこの世の朽ちる栄光や希望ではなく、永遠の御国、天国における希望です。そして聖書には「聖霊をもって証印を押す」とあります。当時ローマ帝国に皇帝の命令が発布されるとき証書を作り、それを巻いて上にはロウを垂らして、皇帝の印を押しました。皇帝からの命令であることがそれで証しされたのです。そして、私たちも証印を受けています。そのしるしは何かというと「救いの福音を聞き、それを信じたこと」それが聖霊の証印です。その証印のあるものは、天国に入ることができるのです。
そしてもう一つ大切なものがあります。それは聖霊の保証です。保証とは、手付け金が払われたことの証明です。ローマの時代、全額払わなくても、手付け金を一部払えば、その人のものとなりました。私たちに必要なものは御霊の保証なのです。 この人は、キリストの十字架の代価が支払われて神のものとなっています。サタンも手出しができない、という保証です。 やがて私たちの人生も、終わりになるときがきます。暗い闇に行ってしまうのか、それとも輝く神の栄光に満ちあふれた御国に輝いて生きるのか、大きな問題です。救いの確信となる聖霊の証印、御霊の保証をしっかりといただきましょう。


                         (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)