柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神に喜ばれる捧げもの」 詩篇51篇10-17節

本日は詩篇51編を開きました。この詩編は表題にダビデという名前が出てきますが、彼が作った詩篇と言われています。彼は羊飼いでした。羊を飼って野原に出、歌を口ずさむこともあっただろうと思います。賛美することは良いことです。力がわきます。信仰も励まされます。イスラエルの神は賛美の上に座すると聖書にもあるくらいです。ですから、賛美すれば神様の大きな恵みにあずかることがでます。
詩編もおそらく節を付けて歌われたと思います。神をほめたたえる歌が多いのですが、この51編は悔い改めの詩編です。ダビデが罪を犯したときに、その心境をうたったものです。普通、私たちは罪を覆い隠します。しかしダビデはそうしませんでした。それにまさる大きな喜び、解決を得たからでした。私たちもその恵みにあずかることができます。


1.聖霊の助けがある

10,11節に「きよい心を造り、聖霊を取り去らないで」とダビデはうたいました。それはまさに彼の魂からのせつなる叫びではないかと思います。7節にヒソプをもってきよめてくださいとあります。ヒソプとは植物で、病をきよめる儀式に用いられました。それくらいにダビデは「私の心は、病におかされているきよめて欲しいと」懇願するほどに苦しんでいたのではないでしょうか。
彼は大きな罪を犯しました。ウリヤという人の妻バテ・シェバを好きになり、奪うことをしました。そのためにウリヤを激戦地に向かわせ戦死させたのです。だれも知りませんでしたが、神様は知っておられました。預言者ナタンを遣わし、その罪を示されたのです。ダビデはそのとき、衣を裂いて地べたにひれ伏し、神の赦しを願ったのです。その心の内が、この詩編に表されています。それで悔い改めの詩編と言われているのです。悔い改めは懺悔と違います。懺悔はじぶんの過ちをただ悲しみ、後悔するだけですが、悔い改めは180度方向転換し、神に従って行くことです。懺悔だけでは救われません。私たちは悔い改めて、神に従わなければ救われないのです。
そのために聖霊は必要です。私たちを迷いの道から導きだし私たちを神のもとに連れ帰って下さるのです。


2.罪の赦し、きよめがある

14節、血の罪から救い出して とダビデは叫びました。それくらいに、罪は私たちを苦しめるものです。罪を犯すものには平安はありません。ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、子どもができたことを知りました。それを覆い隠そうと策略を考え、ついにはウリヤを殺したのです。ヤコブ1:14〜15に「 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるとおりです。病は健康を害し、肉体のいのちを奪うこともありますが、罪は魂を地獄の苦しみと追いやり、永遠の滅びへ追いやるのです。罪ほど恐ろしいものは他にないのです。
ですから,ダビデは「血の罪から救って下さい」と必死になって祈ったのです。ヒソプは元来罪のけがれのきよめに用いられたのですが(民19:17以降)それにまさる方法があります。それは、「御子イエスの血、全ての罪より我らをきよむ」(?ヨハネ1:7)とあるように、イエス様の十字架の血潮で罪が完全に赦され、きよめられるのです。


3.神に喜ばれるものがある

当時、罪の赦しのためには、犠牲を神殿で献げることがありました。しかし、このところで16節を見るとダビデは、神はいけにえを喜ばれないといっています。どういう意味でしょうか。当時イスラエルでは神殿で多くの犠牲が献げられていました。しかし、それはもうすでに形骸化した形だけの、本当の意味が失われたものとなっていたのです。
おそらくはダビデの信仰も、形だけのものだったかもしれません。異邦人との戦いにおいても連戦連勝、敵なしでやること全てが順風満帆でした。しかし、心に隙ができたのです。そして罪を犯してしまいました。彼は涙を流し悔い改め、自分の罪を認めて、赦しを得ることができたのです。それを悟ることも理解することもできたのは、聖霊の働きです。聖霊は光を持って彼を照らし、心の中に悟りを与えられたのです。
ダビデは悟りました。神の喜ばれるのは、いけにえや献げものでなくて、自分の悔いた心、砕かれた魂なんだとわかったのです。そして彼は神の前にへりくだりました。現代のイスラエルでも彼は尊敬されています。人から最も愛され、神に信頼されたすばらしい王であると思います。だからこそ、彼の子孫としてイエス・キリストは、彼の家系から生まれたのです。

私たちもまた、神様が最も喜ばれるへりくだった心をもって恵みにあずかりましょう。


                            (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)