柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の備え」 創世記22章9-14節

今日は旧約聖書創世記から、アブラハムを通して信じることの幸いを学びたいと思います。


1.神は試練を与えられる

アブラハムの生涯には4回ほど試練があったようです。第一の試練は、12章に出てくる、「あなたの父の家をでて、わたしの示す地へ行きなさい」といわれ、全く知らないところに行くことになったということです。そして、第二の転機は、一緒に旅をしていた甥のロトと分かれるとき13章にあります。さらに17章では全能の神が現れ、完全なものとなりなさいといわれ、新たに契約を結び、子どもが与えられると約束されたときでした。そして、最後の試みは、我が子イサクを献げよと神から命ぜられたことです。それぞれ、信仰がなければ決断できない事でした。そしてその後に、豊かな祝福があるのです。
神様を信じたら試練がなくなるということはありません。試練はあります。ではなぜ、信仰があればいいのかというと、?コリ 10:13に答えがあります。「 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」まず、神様は耐えられないような試練を与えられないということです。あなたが耐えられるから、神様はその試練を与えて下さるのです。試練はいわば神様からのテストです。神様は私たちに、信仰があるかどうかを調べられるのです。そして、あなたにはこれを乗り越えることができると、試練を与え強くしてくださるのです。
そして第二に、必ず逃れる方法、苦しみからの脱出方法を神様は備えておられるのです。このことを信じ、受け入れることができるようになります。アブラハムは神様から、試練、神のテストを受けましたが、それにより彼はますます信仰が強められ、さらに大きな幸いを得ることができたのです。ですから、私たちが苦しむとき、それは神様のテストである。神様は、この試練を通して、わたしの信仰を強くして下さり、ますます恵み豊かな人にして下さるんだと信じたいとおもいます。


2.アブラハムの信仰

神様はあなたの独り子、イサクをつれて、モリヤの地に行って全焼のいけにえとして献げなさい、と命じられました。そこには、信じがたいこと、受け入れがたいことがあります。ひとり息子イサクは、アブラハムが100才になってから与えられた子どもです。しかもそれは神様が与えるといわれたから、与えられた息子です。それなのに、神様は全焼のいけにえとして献げなさい、つまりは、祭壇の上で焼き殺しなさいと命ぜられました。そんなことはできない話です。しかも、十戒には殺してはならないと、神様御自身が命じられています。そして、周りの異邦人は、子どもを人身御供にして焼き殺し、偶像の神にそなえ、忌べきことを行い、神様は禁じておられたのです。
私たちにも、信じられない、思いがけない試練が突然にして来ることがあります。そのときどうするかが、問われるのです。
アブラハムはそれでも、神に従いました。そしてモリヤの地に行ったのです。モリヤの地とは今のエルサレムイスラム教のモスク、黄金のドームが建っているところといわれています。そこには大きな岩があります。かつてソロモンの神殿が建てられた所でもあるのです。非常に意味深い所です。
そこで、アブラハムはイサクを縛り、刀を取って殺そうとした、と聖書にあります。イサクはもう青年でした。6節を見るなら、羊を丸ごと焼くぐらいの薪を背負える屈強の青年でした。ですから、100才超えたアブラハムを彼はとどめることはできたのです。でも、彼もまた父と同じ信仰を持っていたということです。彼もまた主に従い、全てを主に委ね従ったのです。「まな板の鯉」ならぬ「祭壇のそなえもの」となったのです。
実は神様の求めたのは、イサクのいのちではありませんでした。神の求めたものは、アブラハムの信仰でした。完全に彼が従うか否かを調べられたのです。そして神様は、彼の信仰を喜ばれました。


3.神の備えがあります

刀を取って殺そうとしたしたとき、神は御使いを通して、その手を止め、「あなたが神を畏れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」12節といわれたのです。神様は彼の信仰を賞賛された。彼はただ信じたといっただけでなく、その信仰を、行いをもって表したのです。(ヤコブ2:20〜23)彼は息子イサクを献げました。献げきったのです。そして、神様はイサクを生かしてもう一度アブラハムに与えられました。
ひょっとして、私たちにもイサクのような大切なものがあるかもしれません。愛して止まない大切なもの、だれにも渡したくないものがあるかもしれません。それは大切な人かもしれませんし、ものかもしれません。あるいは、自分の名誉、またはプライドかもしれません。しかし、神様はそれをわたしに献げよ、といわれます。信仰の試験が与えられるのです。それを献げることができるでしょうか。明け渡すことができるでしょうか。それが私たちに課せられた、信仰の試験です。
アブラハムはイサクを献げることができました。彼には信仰があったのです。それは、よみがえりの信仰、復活の信仰です。ヘブル11:19に「神には、人を死者の中からよみがえらせることもできる」彼はそう信じていたのです。そして神の手に委ねることができました。私たちにもその信仰が必要です。
私たちが最も愛してやまないものが、取り上げられるとき、私たちは失望し落胆します。それが取られると、全てが失われるように錯覚してしまうのです。しかし、それは全てではありません。それを献げきるとき、神様は備えて下さいます。アブラハムにも、イサクの代わりに雄羊を与えられました。
神の山には朽ちることもしぼむこともない備えがあるのです。神様は私たちに試練と共に、逃れの道を与えられます。それはイエス・キリストです。自分は大切なものを失った。もう駄目だ。失望と落胆の泥沼に陥った私たちを救い出してくださる方です。アブラハムはモリヤの山でイサクを献げましたが、父なる神は、その独り子イエス・キリストをカルバリ山に献げられました。罪人たちに、よってたかって馬鹿にされののしられ、十字架に釘付けとなり、槍で突かれ死なれました。しかし、その十字架の上で、私たちを赦されたのです。全ての呪い、憎しみや悲しみを受け取ってくださったのです。このキリストを信じるなら、悲しみも苦しみもいやされます。そして新しい力が与えられるのです。
私たちは十字架の力キリストの愛によって、試練を乗り越えることができます。



                         (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)