マタイの福音書13章には有名な種まきのたとえが語られています。なぜたとえを持って語られたのでしょうか。
1.すべての人が救われるためである
種まきの話は、誰でも理解できました。おそらく今でも小学生に、固い土の上と、土が少ししかないところ、いばらや雑草がたくさん生えているとこと、よく耕されて土も肥えたところどこが一番たくさん実がなるか、きいたらすぐ分かります。
イエス・キリストは決して難しい話をして、わかりにくくしているのではありません。キリストが来られた目的は、私たちを永遠の滅びから救うためです。決して私たちを裁いて、おまえは駄目だ、天国に行く資格はないと言うために来られたのではないのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(第1テモテ2:4)それが神様の私たちに対する願いです。ではどうして、真理を悟ることができないのでしょうか。
2.真理を悟れない理由
(1)それは奥義であるからです。
11節、新共同訳では秘密、英語の訳では、シークレットやミステリーと訳されています。原語ではミステリオンと言うギリシャ語が使われています。簡単に言うと「秘伝のタレ」のようなものです。秘伝のタレは簡単にできません。試行錯誤し、ひらめいて、長年培ってやっとできる。そして継ぎ足し継ぎ足し、継続されていく。天国の奥義も、奥深いものです。奥義を極めるためには、ああでもない、こうでもないと考え悩み、時には苦しんだり、痛みも感じる。そんなこんなを通して、そして明らかになるものでで。それが分かればイエス様が言われたごとく、畑に宝が隠されたのを見つけた商売人のように、すべての持ち物を売ってでも手に入れたい。そんなものに、私たちは変わるのです。天国の奥義を知ったら価値観が変わり、生き方も変わります。この世のことなど、たいして気にならなくなるのです。もっと自由に生きることができます。永遠の価値あるものを求めて生きることができるのです。
誰が奥義を知ることができるでしょうか。11節をみるなら、あなたがたとあります。それはキリストの弟子です。彼らとはだれでしょうか。群衆です。イエス様をとりまいた野次馬です。何かおもしろいことないかと、見ていた人です。しかし、弟子は違います。網を捨て、父を捨て、舟をすてて従ってきた人たちです。イエス様は、弟子たちに、天国の奥義を知ることが許されていると言われました。許されているとは、可能性があるということです。決して、自動的に分かるというのではありません。ですから、私たちは、可能性を信じて、さらに求むべきです。そうするなら、神は私たち教えて下さるのです。
マタイの16章でイエス様はわたしを誰だと言っているかと尋ねられました。バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤだと群衆は言い、「生ける神の子キリストです」とペテロは言いました。しかしキリストは明らかにしたのは天の父、神ご自身であると言われた。真理は神によって明らかにされるのです。神が私たちに、天国の奥義を知らせて下さいます。
(2)天国の奥義が分からないもう一つの理由は、かたくなな心です。
15節に「心は鈍くなっている、耳は遠く、目はつぶっている」とあり、見ようとしない、知ろうともしない。求めない人の姿があります。だからわからないのです。ですから、私たちがもし、へりくだって、求めるなら、真理を探究しようとするなら、神様は真理を明らかにして下さいます。聖霊が働かれ、心は開かれ、真理を悟ることができるのです。使徒パウロもピリピ3:12,13で、「追求し、ひたむきに前のものに向かって進んでいる」と言っています。それが真の求道者、探求者の姿です。
3.どうすれば天国の奥義を知ることができるか
単なる、キリストの取り巻き、群衆になってはいけません。見物人であってはいけないのです。真理を悟ることができません。それはちょうどレストランの前で、見ているだけの人と同じです。飛び込んで、注文し、食べて初めて味が分かるのです。
信仰も同じです。信じて飛び込むのです。キリストを信じて、キリストにすべてをお任せして悪かったと言う人は一人もいません。安心して、キリストにすべてを任せゆだねて下さい。
よい地に蒔かれるとは、「御言葉をきいて、それを悟る人のことだ」と聖書はそういっています。それはキリストの言葉であり、あなたの柔らかい心です。そうするなら、実を結びます。あなたの心に、愛の実を結ぶことができるのです。そして、神様は、成長させて下さいます。30倍、60倍、100倍と豊かに実らせていただきましょう。
(説教者:柏原教会牧師 西本耕一)