柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「あかりを灯していなさい」 ルカ12:35-40

今年最後の礼拝となりました。限られた時間の中に置かれているわたしたちは、今とても気ぜわし思いに支配されています。
ところで、新約聖書の記者たちは、「時」と言うものについて、何を知っていたのでしょうかそしてわたしたちは、「時」について何を知っているのでしょうか。けさはこのことを少し考えて見たいと思います。


1.終わりを知っている

まずわたしたちは、「時」について、さまざまな出来事の終わりが何時であるかを知っています。一日の終わり、一週間の終わり、一ヶ月の終わり、そして一年の終わりが何時か、あと何日、あと何時間で終わりかということを知っています。
ところがこの終わりを知っているということが、果たしてわたしたちの人生にとって益となっているのでしょうか。
わたしたちには、終わりを知っているから出来ることと、終わりを知っているためにできないこととがあるのです。
皆さんは、今年も年のはじめに、あれをしよう、これをしようと、今年こそはと計画されたことでしょう。そして今、この年を終わろうとするとき、結局、あれもこれも出来なかったということになるのではないでしょうか。一年といわず、一ヶ月あるいは一週間、いや一日の終わりでさえもそのようなことをしばしば経験します。それは何故でしょうか。
わたしたちは終わりを知っていたために達成できたことが多くあるに違いありません。しかし、終わりを知っているために出来なかったことが多いのもまた事実です。それは、まだ時間がある、後でやってもまだ間に合うと思っている内に「時」を失ってしまうからです。
またわたしたちは、「時」というものをよく知り、支配しています。ことを計画的に進めることも出来ます。しかし、「時」を知っているために不真実であると言うこともあり得るのです。
ある教師は、いつも10分遅れて教室に入ってくることが分かっています。そうするとそれに間に合うように教室に入って、定刻に入っていたかのように見せかけることが出来ます。上司の出社時間が分かっているために、その時刻には忠実な仕事ぶりを示し、他のときはいい加減に過ごすと言う、まことに不真実な生活態度が身に付いてしまうのです。
このように考えると、「時」を知り、「時」を支配するわたしたちは、そのことのゆえに受ける損失の多いことに気付かせられます。


2.時を知っていない

ところが、さらに深く考えて見ますと、わたしたちは時を知らない者でもあります。一日や一年の終わりが何時やってくるかは知っていても、もっと大切な、自分の人生の終わりについては全く知らないのです。
これはわたしたち人類の最大の弱点です。どれほど知恵を誇ってみても被造物に過ぎないのです。自分の人生、自分の時間、自分の命と主張してみたところで、もっとも大切な自分の終わりについては全く知らないのではお話になりません。
このようなことについて、聖書は何と語っているのでしょうか。新約聖書の記者たちはどのように理解していたのでしょうか。


3.新約聖書の記者たち

本当のところは、彼らも「時」を、終わりを知らなかったのです。
 彼らは、知らないこと、知らされていないことに対して、どのように考えていたのかと言いますと、
 主の来臨について、もし「時」が知らされていたとすれば、定められたとき以外は、彼らは全く主を待つ必要はないし、したがって、定めのとき以外は、まるで主とは関係のない時、主に属さない時であるかのように過ごしてしまうに違いない、と考えていたのです。
「もし家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。ルカ12:39」
泥棒が来ないと分かっているときには、泥棒のことなど考えの中に全く無いように、主の来られる「時」が分かっていたとすれば、その他のときは、主について、全く思いもしないで過ごしてしまうであろうと言うのです。ですから、主の来られる「時」、終わりの「時」は、知らされておらず、知らないために、いつも主のことを考え、備えしなければならないから幸いなのだと考えていました。しかし、
本当のところ、彼らは「時」について、知っていたのです。
「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。35」
 彼らは、終わりが何時かは知らなかったのですが、「時」が終わりに向って満ちつつあることを知っていたのです。
しかも、人類にとって、知りえない終わりは暗黒に向っての終わりですが、彼らは希望に満ちた終わりに向って「時」が満ちつつあることを知っていたのです。時は、主の御手の中にあり、主のご計画の中にあって、完成に向かいつつある、と知っていたのです。そして、
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを(目を覚ましていること)見られるなら、そのしもべたちは幸いである。38」
何時だろうか、何時かな、と詮索する間に、むしろ用意すべきであると語っているのです。
今この「時」も、主の御手の中にあり、主のための「時」であり、主のしもべであるわたしたちは、今この時を主のために用いるべきなのです。
「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がもう来ています。ローマ13:11」 
本当のところ、わたしたちは自分の終わりを知らず、主の来られるとき、この世の終わりについても知りません。
しかし、この「時」は、神のご計画の完成に向って満ちつつある「時」であることを、主のご降誕とその前後の歴史を通し、聖書の啓示を通して知らされています。
本当のところ、わたしたちは今この「時」が、主のためにあるのだということを知っています。この一年、主の憐れみによって守られてきたことを感謝し、今日より後は、一日一日を主のためのとき、主に仕える日々として、いつ主がおいでくださってもよいように、日々を過ごしたいと思います。
「明かりを灯していなさい 35」とは、待つ者の姿を実に的確に、そして美しく表現しています。明かりを灯し続ける生涯でありますようにと祈りましょう。明かりを灯し続けることを具体的に言えば、聖書を毎日読むこと、祈ること、主の日を尊び礼拝を大切にすることです。来るべき年がこの意味において明かりを灯し続ける年となりますように。
新しい年が祝福に満ちたものとなるように期待しつつ進みましょう。


                              (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)