柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「倒れても大丈夫」 マタイ7章24-27節

岩の上に家を建てる聖書の中でも有名な話です。

この話には一つの背景があります。マタイの福音書4章23節を見ますと、イエスさまはイスラエルの北にあるガリラヤ地方を行き巡って、色んな病気の人を全ていやされました。そのうわさが広まり、群衆が押し寄せてきたのです。それでイエスさまは山に登り、本当の幸せは何かを教えられました。「心の貧しい人は幸いです。」という有名な話から始まって、そして最後の締めくくりが、岩の上に家を建てる話で終わるのです。何でも最後が肝心です。


岩の上に家を建てるとは、自分の人生をどこに建て上げるかと言うことです。誰でも砂の上に家を建てるのは良くないとわかります。でも自分の人生をどのように建て上げるか、簡単には分かりません。しかし聖書を読むと、どこが岩の上でどこが砂の上か、どこに自分の人生を築いてけば良いかが分かってきます。


1,神のことばを実行する。

12節には自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい、とあります。聖書にはいいことが書いてありますが、それを自分がするのは難しいことです。しかし、キリストのことばをただ聞き流すだけでなく、やってみようと思うだけでも違ってきます。そして神様に祈るなら、変わってきます。神様が変えられるのです。神様は、その人が出来るようにしてくださるのです。

エスさまは、私のことばを聞いてあなたも一度やってみなさいと言われます。


2,神のことばを信じる。

聖書のことばをやってみようと思うときに必要なのは信じることです。信じていくと、やってみようかなと思うようになります。
25節に、雨、洪水、風とありますが、ある方は、雨とは天からの試練、洪水は地上の困難、風は悪魔の誘惑と面白く解説されておられました。私たちはこの世で様々な試練、困難、誘惑に合います。クリスチャンでも同じです。神様を信じたから試練に合わないことはありません。神様信じても、信じなくても困難は同じです。面白いことに25節と27節を見ると、前半は全く同じです。しかし、後半は違います。「それでも倒れませんでした」「倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」とあります。聞いてそれを行うか、聞いても行わないかによって大きな違いが生じるのです。
私たちは、神のことばを信じるとき人生の結末は変わってくるのです。


3,キリストが私たちの岩である。

「岩の上に家を建てる」とは、一見イエスさまの言葉に従って、しっかりと生きるように戒められているように思われるかもしれません。しっかり、強く生きて、嵐が来ても倒れないような家を建てなけれいけない、がんばらなくてはいけないと思ってしまうのです。
しかし、イエスさまはがんばって立派な人になりなさいとは、言われていません。イエスさまが言われたのは「それでも倒れない」と言われたのです。「岩」の上に家は立てられていました。その「岩」はイエス・キリストです。キリスト私たちを救うためにこの世に来られ、人としての苦しみを味わい、悩み最後には、十字架に掛けられました。敵をも愛して死なれたのです。
そのキリストは、死から甦られ、今も私たちを愛し、受け入れて下さるのです。あの十字架の上で私たちの心の罪、怒りやいらだち、悔しさ、腹立たしさや虚しさ、全ての罪を受けてくださり私たちを受け止めてくださるのです。キリストは私たちを愛しておられます。

「立っていても、倒れても、ここはあなたの手のひら」と星野富弘さんは謳いました。星野さんは体育教師でした。ある日事故で、首から下は動かなくなりました。絶望的な経験をされました。そのなかで星野さんは自分が力強い神の手の中に抱きしめられていることを知り、生きる力と慰めが与えられたのです。

エスさまは「倒れても大丈夫」私がおまえの岩だ、流されることはない。そう約束してくださいます。
倒れることを恐れなくてもいいのです。いや倒れても大丈夫です。立っていても、倒れても、イエスさまがその手でしっかりと支えてくださるのです。全てをキリストに委ねましょう。

キリストがあなたを立ち上がらせてくださいます。


                           (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)