柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「弱さの中の強さ」    第2コリント12章1-10節

「弱さの中の強さ」 、それはいったい何でしょうか。

弱さと強さは相反するものですし、この世では強いことはいいことで、弱いものはダメだと思われています。が、聖書の世界では、それは相反しません。むしろ、聖書の真理が解ると、弱さの中に本当の強さを発見することができるのです。

神様にお祈りしても、なかなか答えられない。私の信仰は弱い。私はダメじゃないか、と思っている人がいます。実はそのダメなのがいいのです。なぜなら、10節でパウロは、「私が弱い時にこそ、私は強い」と言っています。その真理が解ると、自分の弱さを乗り越えることができるのです。そのために知ることは何でしょうか。


1,神様はとげを与えられるということです。

7節を見ますと、パウロに一つのとげが与えられました。彼は目が悪かったのです。自分で手紙すら書けず、代筆をして貰ったこともありました。今で言う、白内障緑内障目の病気であったかもしれません。目が見えないのは大変不自由なことです。
なぜ、神様はとげが与えられるのでしょうか。それは私たちが、高ぶることがないように与えられるのです。他の聖書では、高慢にならないように、思い上がらないようにとあります。私たちはすぐ、高ぶりやすく、高慢になり、一人舞い上がってしまうことがよくあります。
パウロの高ぶりとは、何だったのでしょうか。それは天国を見てきたと言うことです。2節に、第三の天とあります。イスラエルの人たちは天が三層になっていたと考えていました。第一の天は、大気圏つまりわたしたちがいつもみている空のことです。第二の天は月星太陽が輝いている宇宙です。そして第三の天は、神様がおられる天国のことです。4節を見ると、パラダイスとあります。そこは素晴らしいところです。パウロはそこに行ったであろうと思われます。彼はそのすばらしさを語りたくてしようがなかったことと思います。でも、彼はそれを控えました。6節で、彼は人が私を過大に評価するといけないからと言っています。彼が伝えるのは、自分のことではなく、キリストが救ってくださることでした。しかし、あまりにも素晴らしすぎるので、ついつい天国のことを先に、言いたそうになったのです。しかし、それでは単なる自慢話にしか過ぎなくなります。神様は、そのためにとげを与えられたのです。
私たちにも、神様は高ぶらないように、思い上がらないようにとげを与えられます。とげは小さいものです。ごく些細なものです。ですから、それ自体たいしたことはありません。構わなくていいのです。ほおって置いて構いません。でも、いいと解っていても、ほじくって早く取りたい、それが私たちの思いです。パウロも、それが取り除かれるように三度も祈った、とあります。彼は癒されでしょうか。癒されなかったのです。パウロは、病気の人を癒すことができても、彼は癒されませんでした。そこには神様の素晴らしい、癒し以上の恵みの計画があったのです。


2,神の恵みを体験することです。

彼は、肉体の癒しを得ることはできませんでしたが、キリストの大きな恵みを受けることができたのです。キリストの恵みとは何でしょうか。それは十字架の恵みです。十字架によって罪赦され、私たちの心の痛みや悲しみ、魂がいやされ、私たちが新しくされることです。パウロはその大きな恵みを受けることができました。
三重苦の聖女と言われたヘレン・ケラーも、身体はいやされませんでしたが家庭教師のサリバン女史を通して、生きることの喜びそしてキリストの愛を知ることができたのです。
それは私たちも同じです。誰もが、キリストの愛・恵みを知ることができます。
神の恵みとは、先ほど言いましたように、十字架で全ての罪が赦され、苦しみや悲しみがいやされることでです。そしてもう一つ大切なことは、キリストが側(そば)にいて、私たちを慰め励まして下さるという恵みです。そして、神の恵みは弱さの中に、完全に現れると約束して下さっています(9節)。その約束は真実です。ナルニア国物語の著者CSルイスは「キリスト教は真実でないとするなら、全く重要ではない。しかし真実ならこれほど重要な教えはない。」といっています。 真実なところに無限の価値があります。そして神様の恵みは、私たちの生きている中に現されます。
私も神学校で、聖書を学び神様の恵みにあずかりましたが、卒業してからは、さらに大きな恵みを頂くことができました。
大きな試練の中で、絶望感にさいなまれ、奈落の底に落ちていくような思いをした時に、「私の恵みは、あなたに十分である。」とのイエス様の声が、心に響いたのです。「わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。」と。その時改めて、一人子を惜しむことなく十字架に献げられた、父なる神様の愛を覚えました。単に一人子が死ぬだけでない。罪人たちにあざけられ、さげすまれ、挙げ句の果てに罪の濡れ衣を着せられ、十字架にはりつけにされ、殺させる。その一人子の姿を、父なる神様はどんな思いをして見ておられただろうか。そのことを思うと、私の胸は張り裂けそうな思いがしました。それ程までにして、私を愛し、私の罪を赦して下さる。「主よ、赦して下さい。あなただけで十分です。感謝です。」と祈りました。そのとき、「私はよみがえりであり、。命である。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのである。」その御言葉が心に響き、復活の命、永遠の命の希望が与えられました。
そうだ、天国、パラダイスがあるんだ。死んで終わりではない、天国の希望があるんだ。そう思うと、心は大きな平安に包まれたのです。本当に感謝な気持ちでいっぱいになりました。「キリストの力が私をおおう」とありますが、まさにその思いで、心は満たされたのです。そしてもう一度、信仰をもって立ち上がることが出来ました。
ですから、私たちは弱くていいのです。キリストが力があなたを覆います。あなたを守り、その愛であなたを包んで下さるのです。弱いことは恥ではありません。むしろ弱さの中に、十字架のキリストは現れて下さり、慰めて下さいます。

自分の弱さの中にキリストの強さがある。そのことを信じましょう。

                                (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)