今日は柏原教会が設立されて、76年目を迎えます。昨年は75周年節目の年であり、時代と共に変わるものもありますが、私たちに語られている救いの言葉、福音は変わることがありません。
柏原教会はドローシー・ホーア先生によって始められました。英国の貴族の出身であり、お父さんは聖公会の主教で中国の宣教師でした。ホーア先生は若い頃は反発心も強く、なかなか大変だったようですが、主に罪を告白し、明確な罪の赦しを体験されました。そこから全く人がかわり、聖潔の恵みも受けられて、日本に宣教師として来られたのです。そして伝道の鬼と称されるごとく、自分の身体もいとわないで救いのために労されました。まさに一粒の麦となって、自らの命を捧げ、多くの救いの実を実らされました。神戸にホーア先生のお墓があります。その墓碑に20節の御言葉が刻まれています。「神の和解を受け入れなさい」まさに先生はそのことを伝えるために日本に来られたのです。そして、21世紀に生きる私たちもこの御言葉を受け入れ、伝えていきたいと思います。
1,私たちは神と和解しなければならない。
このことは日本人にとって一番わかりにくいことです。日本にはたくさんの神があるからです。この神様がだめなら、別の神様に頼もう。そう考えるのです。人間の手で作った偶像をも拝んでいます。ですから、本当の神様は怒っているのです。
先月、東京秋葉原で通り魔事件が起こりました。なんとインターネットの掲示板では、犯人に共感するような意見や、やったことをたたえるような書き込みもあると言います。しかも似たような事件が次々と起こっています。まさに、世も末と思えることが現実に起こっています。それは、自分のことしか考えられない生き方から来ているのではないでしょうか。
その原因は、創世記3章を見ると明らかになります。神は最初の人アダムを造られ、全てのものを彼に任されました。ただ一つ「エデンの園の中央にある木の実をとって食べてはならない」とだけ約束されたのですが、彼はそれを守ることができなくなったのです。ついに誘惑に負け、罪を犯してしまう。私たちにもその性質があるのです。甘い誘いに乗っかって、欲に駆られ、罪を犯し失敗することがあるのです。アダムもエデンの園を出て苦労しこの世で生きなければならなくなったのです。
私たちは、疲れてうまく行かないときに、それは考えすぎだ。もっと気楽にやればいい。と言われます。しかし、心の中にある、欲望、罪を犯す性質は気楽にやるだけでは解決できません。もう一度最初のエデンの園のアダムとエバのときのように、神様の守りのなかで自由にそして豊かに生きるためには、その全能の神様のもとに立ち返らなければならないのです。
神様は、私たちが約束を破ることに対して、怒っておられます。あの十戒の中で、イスラエルの人たちに「わたし以外のものを神としてはならない」と言われましたが、彼らは神以外のものを神として拝み、その実心は空しくなってしまいました。そして私たちも、互いに愛せない、素直に喜べない、虚栄の人生に陥り、淋しい人生をすごしているのではないでしょうか。そして犯罪、事件が起きる世の中になっているのです。
ですから今私たちは、神様の元に立ち返らなければいけませんし、神様と和解しなければならないのです。しかし私たちはどうすれば、神と和解し、豊かな祝福その恵みにあずかることができるでしょうか。
2,キリストが和解となってくださる
18節に「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」とあります。私たちが神と和解できる唯一の方法は、イエス・キリストご自身に他ならないと言うことです。
キリストは私たちと全く同じ人として生まれましたが、ただ一つだけ異なっていました。それは罪を犯されなかったということです。キリストを信じないと言う人はたくさんいます。しかし、キリストに罪があった、罪を認める、という人はあまり聞いたことがありません。あのキリストを裁いたピラトでさえ「私は、あの人には罪を認めません」(ヨハネ18:38)とはっきり言っています。21節には「罪を知らない方」とあります。それは罪とは全く無関係、簡単に言えば一点の罪のシミもない、真っ白だという意味です。
罪を犯したものが、罪人の身代わりはできません。川でおぼれている人が、同じおぼれている人を助けることができないのと同じです。キリストは全く罪を犯されませんでした。ですから、罪の中に沈みもがいている人を、救うことができるのです。19節には違反行為の責めとあります。私たちは違反してきました。それは嘘をついたり、高ぶったり、欲に駆られて盗んだり、妬んだり、恨んだり、神の前には悪である罪を犯してきたのです。
21節に「私たちの代わりに罪とされた」とあります。なぜキリストは十字架で死ななければならなかったのでしょうか。それは私たちの違反行為の責めを負って、命の代価を払うためでした。私たちの罪の代償を十字架にかかって、支払って下さったのです。
3,私たちには和解の奉仕が与えられている
18節神は、和解の務めを私たちに与えて下さいました。私たちは神と和解しただけではありません。神様が私たちに、その働きを委ねておられます。それは、救いにあずかった人の特権です。務めとあるが義務ではありません。私たちにとっては奉仕であり、特権です。
20節をみると、「私たちはキリストの使節である」とあります。ホーア先生の墓石には、an ambassador for Christキリストの大使と刻まれています。私たちはキリストの全権大使です。それは、恐れ多い。自分には無理です。と言われるかも知れません。しかし神様は、和解の働きを、私たちより優れた天使ではなく、欠けたところがあり失敗する人間に委ねられました。天使には、和解のことが解りません。神様に罪赦されることのすばらしさが分からないのです。そんな経験もありません。しかし、私たちは分かります。神を裏切り、神を離れ祝福を失った私たち人間には、和解のすばらしさ、罪赦されることのすばらしさが分かるのです。違反行為の責めを代わりに受けて、十字架の上で裁かれて下さった、キリストの愛が解るのです。
神の和解を受け入れなさい。今でもイエス・キリストは十字架の上から私たちに呼びかけておられます。まず私たちが、神の和解の恵みを豊かに受け、この身をもって和解を表すものでありたいと思います。
(説教者:柏原教会牧師 西本耕一)