柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「渇くことのない水」  ヨハネ4章6-18節

私たちの身体には水が必要です。それと共に、私たちの生活、生命を潤す、たましいの水も必要です。イエス・キリストは、渇くことのない命の水を与えると言われました。サマリヤ人の女の人は、その水を得ることができ、喜びの人生へと変えられました。私たちもその生ける水を与えて頂きたいと思います。


1,神の救いの計画

なぜサマリヤの一人の女の人を救われたのでしょうか。どうして彼女がすばらしい人生の喜びを知ることができたのでしょうか。そこには神の救いの計画があるのです。
第一の理由は3節に出てきます。イエスさまは、ユダヤを去ってガリラヤに行かなければなりませんでした。イスラエルの南ユダヤの地で伝道されていましたが、ユダヤ人パリサイ人のねたみ反感を買って、北のガリラヤ地方に行かなければならなくなったのです。それで、その中間にあるサマリヤを通過することになりました。本来ならそれはただの通過点で、通りすぎるだけの所であったのですが、そこにしばし止まられました。6節を見ると、「旅の疲れで、腰を下ろしておられた。」とあります。おそらくは、深夜か日の昇らない内にユダヤを出て、ずっと歩いて来られたと思います。そして第六時、今の時間では昼の12時、正午頃にサマリヤの町に着かれたのです。


2,キリストと出会う

哲学者のマルチン・ブーバー「人生は出会いで決まる」と言いましたが、私たちは、出会う人によって大きな影響を受けることがあります。サマリヤ人の女の人はイエス・キリストに出会って人生が大きく変わりました。ですから、イエスさまがサマリヤに来られたのは、ただサマリヤを通れば早くガリラヤ地方に行けるだけの問題ではなかったのです。決してこのことは、偶然のことではありませんでした。小さな出来事だった、かも知れませんが、それはやがて大きな祝福となるのです。
エスさまは7節で「水を下さい。」と言われました。それは謙遜な姿です。ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけることはありませんでした。それは紀元前8世紀アッシリヤに占領され、異邦人が入り込みました。そして雑婚がおこなわれ、サマリヤの人たちは混血民族となり、純粋性を失ったのです。そして偶像礼拝がおこなわれました。それで、ユダヤ人は軽蔑するようになったのです。しかし、イエスさまは、サマリヤ人の女の人に水を飲ませて下さいとお願いされました。そこにキリストの謙遜を見ることができます。私たちも人との関わり合いの中で、謙(へりくだ)った心を持ちたいものです。


3,キリストは生ける水を与えられる

10節、神の賜物(無代価で与えられるもの)、生ける水が与えられると約束されました。
しかし、女の人は理解できなかったと思います。彼女は普通のわき水のことだろうと思ったのです。確かに、現実には水が必要です。当時は水くみの仕事は大変でした。井戸まで行かずに、わき水が自分のそばにあれば大変に都合の良いことでした。サマリヤの女は、イエスさまはどこかにわき水があることを知っているのか、ということくらいにしか受け止めていなかったでしょう。そんな彼女に、13節「また渇く」と言われました。しかし、14節で、わたしが与える水を飲むものは決して乾くことがないと言われました。それは私たちが口にする水のことではありません。イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」と言われましたた。ですから、ここで言われているのもただの水のことではないのです。私たちの心を潤し、生活を満たす命の水のことです。
キリストが与える水は、神の賜物、恵みであります。第一に、それはキリストの愛です。十字架の上で全てを赦し受け入れて下さったという、キリストの愛でです。第二にそれは、生きて働かれる聖霊を意味しています。その人の内で泉となる、とイエスさまは言われました。池と泉は違います。池は水が涸れて干上がることがあります。しかし泉は、下から水が湧きあがり、かれることがありません。ヨハネの7章38、39節を見るなら、イエスさまは私たちが聖霊を受けるなら、人を潤し、いやす命の水が心の奥底から湧きあがると約束して下さいました。


4,キリストに求める

15節は、詩篇42編1,2節に通じるものがあります。切なる渇きを、キリストに求めることです。
彼女はわき水を求めたでしょう。しかし主は彼女の心の問題を見抜かれました。彼女にとって今一番必要な、心の渇きを満たすものが何であったのかを、知っておられたのです。それで16節にあるように、あなたの夫をここに呼んできなさいと言われました。水と夫は一見、何のつながりもないように思われますが、大いに関係があるのです。どうして昼の12時に水を汲みに来たのか、誰にも見られないためです。水を汲みに来るのは涼しい朝の早いうちか日がかげる夕方です。しかし、彼女は人目を避けて一番暑いときに、水を汲みに来なければなりませんでした。人に対して、恥ずかしい、後ろ指指されるような生活をしていたのです。結婚に5回失敗し、しかも今は夫でない男性と生活している、それで世間体が良いはずはありません。しかも自分も満足していないのです。魂がひからびたような、空しい人生を、暑い日中に水くみに来なければならないような苦しい人生を過ごしていたのです。
その彼女が、イエス・キリストに「渇くことがなく、ここまでくみに来なくてもよいように、その水をわたしに下さい」そう求めました。
そして、夫はありません。と彼女はありのままに答えました。自分の罪の姿を指摘されたサマリヤの女は、素直に認めたのです。彼女は、イエス・キリストを信じました。それどころか、水瓶をおいて、町に行き人々にイエス・キリストを伝え、多くの人が救われました。サマリヤに救いのリバイバルが起きました。生ける川の水が彼女の内側からあふれ出し、自分が喜ぶだけでなく、人々をも潤い生かすものになったのです。  

                              (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)