柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの復活に達する」ピリピ3章10-16節

 ローマの獄中にいたパウロには一つの願いがありました。それは牢屋から出られることでも伝道する事でもありませんでした。キリストの復活に与る。それが唯一の願いであったのです。 病気の人でも、どんなに健康な人でもやがて死ぬときが来ます。貧しい人にも富める人にも平等に死は訪れます。

1,キリストとその復活を知る
 大切なのはその後のことです。パウロは復活のことを願い、それが彼の最大の関心事、そして希望であったのです。この希望はなくなることはありません。復活は死に打ち勝つからです。
 彼の人生は変えられました。なぜなら復活のキリストに会うことによって、人生は180度変えられたのです。良心のジレンマ、迫害することの苦しみから彼は解放され、生きる目的を見いだし、獄中にあっても心に勝利と喜びがあったのです。
 まず大切なことは知ることです。彼は迫害をしている中にキリストを知りました。キリストに出会ったのです。「人生は出会いで決まる」と言った人がありますが、キリストに出会った。キリストを知った。それがパウロの人生の転機となったのです。私たちもキリストを知ることができます。聖書を通してキリストに出会うことができるのです。そしてキリストはよみがえられました。聖書を通して信じることができるのです。見ていなくても信じられます。それは2000年間続いているのです。夢でもなければ嘘ではない。復活の事実をクリスチャンは信じ続けています。そしてそれが信仰の原動力となっているのです。 彼は復活を知ったことにより。キリストの苦しみに与ること、そしてキリストの死と同じ状態になることを知ったのです。即ち十字架体験です。そして、ガラテヤ2:19,20にある自我の磔殺と復活の力です。彼はそれを信じました。そしてキリストと共に苦しむこと、キリストと共に十字架につけられることキリストと共によみがえらされることを彼は信じたのです。それが彼の信仰の勝利、喜びの原動力となったのです。言わばカルバリとペンテコステの恵みを彼は受けることができました。

2,求め続ける
 しかも彼はこれで完成したとは言っていません。12節ではただ捕らえようと追求している。求め続けているのだと言っているのです。さらにそんな自分をキリストはそれを得るようにと捕らえて下さっていると告白します。それは真に、詩篇23:6でダビデが、「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」と告白したことに通じると思います。
 「私は恵みを得た。これで卒業だ。」ではないのです。まさに、恵みに恵み、憐れみに憐れみを、これでもかこれでもかと神様は与えて下さるのです。それをパウロは、次から次へと与えて頂き続けていたのです。それが獄中での恵みでした。彼ほど苦しみにあった人はいないと思います。しかし同時に彼ほど恵みに満たされた人は他にはいません。ですから、恵みに恵まれた人の求めるものは、復活なのです。天で栄光の体に変えられることなのです。もはや地上のことは求めません。ハンセン氏病で天に召された玉木愛子さんは「毛虫這えり、蝶となる日を夢見つつ」と謳いましたが同じ気持ちであったろうと思います。

3,信仰によって進む
 そして復活の信仰は前に進むのです。16節にある通り、パウロは前進することを勧めました。後を振り返る必要はありません。13節には、うしろのものを忘れ、とあります。思い出す必要はないのです。なぜなら、キリストの十字架によって、罪は赦されるからです。私たちは信仰によって、キリストの十字架によって完全に赦していただき、解放され新しく生まれて、復活を目ざすことです。十字架は目標ではありません。むしろ16節にある既に達している基準です。すなわちキリストの苦しみに与り、キリストの死—十字架に磔殺される死と同じ状態になり、そして復活に達することです。それはもはや、この世の生き方ではなく、天的な生き方のです。いつも天国のこと復活と栄光の体を思って生きることです。パウロにはそのビジョンがありました。ですから獄中でも喜んで生きることができたのです。その喜びに私たちも満たされるのです。

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)