柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「わたしだ。恐れるな!」マタイ14章22-33節

先週は、台風が東から西へと通過し大変でした。しかし、私たちは神様の守りの中に、被害を受けることなく礼拝できたことは感謝でした。その時にふと「我なり、恐るな」と心の内に御言葉が臨みました。主が共におられるなら、恐れることは一つもない。ただ信じて従って行くなら、神様は必ずご自身の御業を私たちに成して下さるのです。


1,神のご計画

マタイ14章にはバプテスマのヨハネの死と、パンの奇跡のことが出て来ます。バプテスマのヨハネは救い主イエス・キリストの先駆けとして、神の国と悔い改めを説きました。罪の悔い改めそして、御国に入ることを示したのです。しかし、国主ヘロデにより殺害されました。
その時に、イエス様は5,000人以上の人たちを五つのパンと二匹の魚をもって養われたのです。それが神の国の現実であり、救い主の御業であったのです。しかし、残念ながら群衆も弟子たちもそのことを理解することができませんでした。そのようなこともあって、イエス様はあえて弟子たちを舟に乗せ、ゲネサレへと向かわされたのです。この事を通して、「わたしである。恐れるな」と言うことを知らせたかったのです。神様の計画とは私たちを滅びから、恐れから救い出すことであり、目的の地へと向かわせ、無事にたどり着かせることです。
かつて神様は、イスラエルの民をエジプトから救うためにモーセを選び、ミデアンの地で燃える柴の中から現れ、同じように「わたしである」とモーセに応えられたのです。私たちもまた、困難に遭うときに、前に進み行かないとき、また混乱して状況が解らず自分自身を見失うときでさえも、「わたしだ。恐れることはない」と主は御声を掛けて下さり励まして下さるのです。


2,救いの御手

その後、ペテロはイエス様に、水の上を歩いて渡ることを命じて欲しいと願うのです。それは一見、信仰的なようにも思えますが、しかし彼の言っている中に不確定な要素を見いだします。それは「もし、あなたでしたら」という言葉があります。それは、完全に信じ切っているという言葉ではありません。信仰には「もし」という言葉は不要なのです。確信が与えられなければならないのです。
問題は、彼には確信がなかったということです。信仰的に勇敢なように見えても、実はそうでなかったことが暴露されてしまうのです。イエス様の目は節穴ではありませんでした。彼の信仰を見抜いておられました。ですから、彼が願ったとおりのことをされたのです。彼に命じて水の上を渡るように命ぜられました。しかし、彼は途中で、イエス様から目を離したために波風を見て恐れ、沈んでしまったのです。私達も同じです。イエス様から目を離してしまうと、この世の現実だけに目を奪われ、信仰も失ってしまうのです。「なぜ疑うのか」それが私たちの姿です。信仰の薄い人と言われました。それがペテロの姿でした。また、私たちの姿でもあるのです。それがペテロの失敗した故であり、彼の限界であったのです。それは最後まで、続きました。イエス様を自分の命を守るために裏切ったのです。失敗をしてしまいました。しかし、そのようなペテロのために、イエス様は救いの手を伸べられました。そして彼を引き上げ、一緒に舟に乗られたのです。
彼はのち、イエス様の十字架を通して自分が何ものであるかがわかり、彼は悔い改めました。そして、聖霊が降臨されて彼はまったく姿変わりし、大胆に恐れることなく十字架を語る人になったのです。
私たちも疲れ果て、何が何であるかわからない。イエス様の姿も幽霊のように思われる。半信半疑で、水の上を歩いて風邪を見て怖くなり沈んでしまう。そのようなときにこそイエス様はおられることを信じなければならないのです。イエス様は必ず引き上げて下さり、私たちを助け私たちを伴って、天の御国に凱旋して下さるでしょう。そしてあなたこそ神ですと礼拝するときが来るのです。


                 (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)