この手紙は世界に散らされて苦しみに遭っているクリスチャンたちに、苦難のしもべと言われたペテロが励ましを与えるためにこの手紙を書きました。
彼はイエス様を裏切りましたが、立ち直ったら兄弟たちを励ますようにと託されていたのです。
1,神に喜ばれること
この手紙が書かれたときはまだネロの大迫害が起こる前でした。しかし、クリスチャンたちは不当に扱われ苦しめられることがありました。
ここに、しもべとありますが、家の中で仕える奴隷です。決して苦役をしたり、力仕事をしたりする肉体労働の奴隷ではなく、家の中で、家事をしたり、介護や看護師のようなことをしたり、あるいは家庭教師や音楽師のようなことをする奴隷でした。今で言うなら、執事また召使いの様なものです。旧約の人物で言うなら、ヨセフです。彼はエジプトに売られた奴隷でポテパルの家の家令でした。それでも奴隷であり、疑われて不当な扱いをされたのです。
そして、ここでも、不当な扱いをされるときどうするのか、クリスチャンとしてどう振る舞うかが記されています。
ペテロは、尊敬の心を込めて服従しなさいと勧めています。しかも、尊敬できる主人だけではなく、横暴な主人に対しても、尊敬し、服従しなさいと勧めているのです。
実は、それが神様の喜ばれることであるとペテロは言います。なぜならばクリスチャンは人の前で生きるのではなく、神の前で生きるのがクリスチャンです。人を喜ばせたり、人の関心を受けるのではなく、神に喜ばれる、神を喜ばせる生き方をするのがクリスチャンなのです。
ですから、不当に扱われても、神様がすべてをご存じだ、神様が最善にして下さると信じて悲しみをこらえるとき、神様は喜ばれるのです。また善を行って、それが逆に反感を買って、生意気なと言われ逆に意地悪をされても、それを堪え忍ぶなら、神に喜ばれることです。
2,キリストの模範
なぜなら、キリストご自身も、私たちのために苦しみを受けられました。神の栄光を捨てられ、私達と同じになられ、しかし、罪を犯さず、口には偽りがありませんでした。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅かすことをせず、一切を父なる神様に委ね従われたのです。そして、私たちの罪をすべてその身に負ってくださったのです。
3,キリストに立ち返る
それは、私たちの罪を赦すためでした。私たちの罪の傷をいやすために、キリストは十字架にかかり血を流されたのです。なぜならイザヤは預言しました。「その打たれた傷によって、私たちは癒やされた」(イザヤ53:5)からです。キリストは私たちをいやしてくださいます。あのゴルゴダの丘で流された血は、私たちを癒やすのです。
私たちたちが、自分のたましいの牧者であるイエス・キリストに立ち返るなら、その血潮によって罪は赦され、傷はいやされ新しくされるのです。cf.ベンハー十字架の血潮は流れ、病の母妹は全く癒やされて出て来ました。
私たちの心も思いもみな、十字架の血潮によってきよめられ、新しい力に満たされ、神に喜ばれるものとなれるのです。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)