柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛し、祈る」マタイ5章43-48節

マタイ5章は、山上の垂訓で有名な箇所です。「心の貧しい人は幸いである。天の御国はその人たちのものである」いわゆる天国憲法が語られました。そして、その締めくくりと言うべきものが最後に語られています。それは愛の実践です。


1,敵を愛する

43節には一つのことわざが出ています。「隣り人を愛し、敵を憎む」旧約聖書では、隣人を愛することが出ています。同胞を愛し、また困っている人を助ける。その精神はユダヤ人の内に与えられ、今日に至っています。彼らは、エジプトで奴隷となり、バビロンによって国を滅ぼされ、ローマ時代に祖国を失い全世界に散らされました。彼らの拠り所はもう人間的なものではなく、神に頼る以外にはなかったのです。
そしてエジプトを脱出したモーセに、神は律法を与えられました。それは神を愛し隣人・同胞を愛することでした。そして律法には敵を憎めとは出て来ません。おそらくは、「目には目を、歯には歯を」という言葉から憎しみが生まれ出ただろうと考えられます。自分が受けた害を相手にも与える、同等報復律がありますが、元々はそれで両方を治めるものでした。しかし、人間の感情はそれでは治められません。倍返しにする、そんな感情があるのではないでしょうか。一体、人間の怒りは報復したところで収まるでしょうか。
何とイエス様は、それどころか、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われたのです。それは全く人間には不可能な事です。
憎しみで終わるなら、また、新たな憎しみが生まれます。その憎しみを終わらせるもの、憎しみの連鎖を断ち切るのは、「愛」意外にはないのです。
天の父は、悪い者にも良い者にも同じように良くされます。愛されます。そのよい例は、放蕩息子の父親です。父親は、放蕩息子のことをよく知っていたでしょう。小さいときから育てていたのです。そのままならどうなるか知っていました。普通の親なら叱って言うことを聞かせます。ところが放蕩息子の父親はちがいました。息子の言うとおり財産を分けてやり、しかも、父親自身はその日以来、帰ってくるのを信じて待っていたのです。そして、息子が帰って来たとき、小言は一言も言いませんでした。それどころか、最上の服を着させ、指輪をはめ、お祝いをしたのです。それが愛でした。


2,愛において完全になる

自分を愛してくれる人を私たちは愛することができます。ところが憎む人や迫害する人を愛することができるでしょうか。できません。それではどのようにすれば、44節にあるイエス様の命令を実行できるのでしょうか。
エス様は、「完全でありなさい」と言われました。この完全という言葉の意味には、円熟した、あるいは成熟した、大人になったという意味があります。決して、完璧とか完全無欠ということではありません。愛において完全である。それはイエス様の姿そのものです。イエス様はどうだったのか。十字架の上で苦しみながらも祈られました。自分を十字架にかけた人々のためにとりなしの祈りをされたのです。それは、イエス様だけではありません。最初の殉教者ステパノも同じでした。彼らにこの罪を負わせないでくださいと彼は迫害者のために祈ったのです。なぜできたのでしょうか。彼の心の内にはイエス・キリストが生きておられました。彼が自分の努力でしたのではなく、彼の心の中に生きておられるキリストがそのようにされたのです。私たちは完全ではありません。不完全であり、土の器、もろくて壊れやすい者です。しかし、キリストが内に生きて働いてくださるなら、そのキリストによって私たちは成すことができるのです。キリストが私を愛してくださったように、私もその人を愛することができるのです。
完全でありなさいとはどのようなことでしょう。キリストをあなたの内にお迎えしなさい、そして、キリストの前にひざまずき、祈りなさい。そうすればあなたも、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるのです。


        (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)