今日は、召天者合同記念礼拝の時でもあります。私たちは個人を偲ぶと共に、救いの光としてこられたイエス様を崇め、ますますその救いを私たちの内に確かなものとさせて頂きたいと思います。
1,暗きこの世の時代
イエス様は弟子たちに向かって「あなたがたは世界の光です」と言われました。私たちが世界を照らす、そんな事ができるだろうか、できるのです。自分の力ではできません。しかし、神様は私たちをこの世にあって救いの光として用いられることができます。
今の時代は確かに、夜も明るくなりましたが、精神的には暗い時代ではないかと思います。いまだに多くの事件や事故の話しを聞きます。身勝手な犯罪が多いと思います。何でこんなことをするのか、全く勝手な仕業であると思います。しかし、私たちには救いがある、イエス・キリストが私たちを滅びから救ってくださり、平安と喜びを私たちの心に与えてくださいます。ですから、私たちはこのことを素直に喜びあらわす者でありたいと思います。
2,光を隠さない
山の上にある町は隠れることができません。誰にでも見えます。同じように、私たちは暗さの中にあったとしても、キリストの救いの光が与えられているならそれがほかの人にも自ずと知れるところになるのです。ですから、私たちは自らを隠す必要はありません。しかし、日本人は、自分を出すことを恥ずかしく思う傾向があると思います。遠慮することがあります。しかし、イエス様はそれを遠慮してはいけない、輝かしなさいと言われているのです。
ここに枡とありますが、穀物を量る大きな枡です。商売の道具です。それはこの世のことを示しています。この世の生業でもって真理の光を隠してはならない、仕事や商売以上に救いの光いのちの光が大切であることをイエス様は語っておられます。それを家の高いところにかかげれば家中が明るくなるのです。私たちの真の光はお金でもなければ体の健康でもない、むしろ魂の光いのちの光が輝かされるところに明るさがあるのです。
3,私たちの光―キリスト
私たちの光とは誰でしょうか。イエス・キリストです。イエス様は自らをさして世の光(ヨハネ8:12)と言われました。姦淫の罪を犯した女をゆるし、また人々の手から守られてもう二度と罪を犯さないようにと言われたキリストが世の光であり、キリストを信じて従うなら私たちは闇の中を歩くことがありません。空しい生き方をしないのです。なぜならばキリストご自身が光であり、私たちの内側を照らしてくださるのです。それは愛の光であり、ゆるしの光です。わたしたちの罪咎をキリストは十字架で赦して下さいました。ご自身が身代わりとなりいのちを捨てて、私たちの負債を赦してくださったのです。それを信じるなら、私たちの心はゆるされて明るく輝くことができるのです。それが、神様の喜ばれる良い行いなのです。私たちはますます、イエス様を証し、父なる神様が崇められるようにさせて頂きましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)