柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「十字架による新創造」ガラテヤ6章14-16節

キリスト教を信じたら何か良いことがあるのでしょうか、と聞かれることがあります。その答えは15節にあります。「新しい創造」つまり私たちは新しく造りかえられることができると言うことです。


1,律法に死ぬ

ガラテヤ書には三つの十字架があります。一つは、2章20節です「私はキリストとともに十字架につけられました。」第一のことは律法に死ぬと言うことです。それは簡単に言えば、「しなければならない」と言う義務と、「してはいけない」と言う禁止・命令です。それは、私たちには重荷となります。「しなければいけない」、そういう思いに私たちは追いかけられているのではないでしょうか。ここに割礼という言葉が出てきますが、ユダヤ教の儀式です。それで自分は立派な人間だと認められると思うのです。今日の教会にとっては、「洗礼」と言うことになるかも知れません。しかし大事なのは「新創造」自分が新しく造りかえられることなのです。パウロは新しく造りかえられました。律法に生きる人から、キリストの愛に生きる人に変えられたのです。律法のノルマから解放されて、キリストによって自分は生かされている、愛されている、そう信じて生きる者となったのです。


2,肉の欲に死ぬ

そして、もう一つの十字架は5章24節です。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とパウロは言いました。それは彼の中にある、プライド・誇り・栄誉といったものまでも捨て去ることができたのです。彼は肉を、欲望を捨てたとは言いませんでした。十字架につけてしまったと言っているのです。そこが、重要なところです。私たちは欲望を捨て去ることはできません。取り除くことはできません。おそらくは死ぬまであるでしょう。しかし、彼はその肉を十字架につけてしまったと言っているのです。自分の肉を十字架に付ける、それは信仰です。キリストが十字架に付けられた、死んで下さった。それにより、私たちの罪は赦されました。そう信じるなら、私たちの肉も十字架に付けられた、そう信じることです。キリスト教の信仰は過去の信仰ではありません。今、信じるかです。パウロは、肉の思いが出てきたとき、彼はそれを十字架につけてしまった、今もそうである、と信じているのです。彼はその信仰に一瞬一瞬生きていたのです。私たちもまた、そのことを信じることができます。今そう信じるのです。そのことにより、私たちは自分の肉を十字架につけてしまった、しまっていると信じることができます。自分の肉に打ち勝つ、いや十字架につけられているのだと信じることができるのです。


3,この世に対して死ぬ

そして、第三の十字架は14節です。それは、この世が何と十字架につけられ、私も世に対して十字架につけられている。それは、もはやこの世とは何の関係もないものである。世との断絶、この世から分離され神のものとされることです。クリスチャンとは、この世に生きていてもこの世の者にあらず、キリストに属するものであり、この基準、すなわち、私がキリストと共に十字架にかかり、自分の肉もさまざまな欲望も十字架につけ、この世も十字架につけられるなら、16節にある神の平安そしてあわれみが私たちのうちに豊かに注がれ、満たされ、溢れんばかりの勝利ある生き方ができるのです。


                 (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)