柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「栄光の現れ」ヨハネ2章1-11節

ここにイエス様の最初の奇跡が記されています。水がぶどう酒に変わる奇跡です。そしてご自分の栄光を現されたとヨハネは記していますが、私たちもまたイエス・キリストを信じることによって私たちの生活が神の栄光に満ちたものと変えられます。


1,生活の中の危機

エス様は結婚式に招かれました。結婚式は華やかでありごちそうが出ます。楽しいひとときです。当時ユダヤの結婚式は一週間続いたと言われます。しかも町中の人に喜びが分かち合われました。
 結婚は新しい人生のスタートです。また、人間関係においても大切なことです。断ると人間関係に亀裂が生じかねません。イエス様も弟子たちも加わりました。
そこに大きな問題が生じました。ぶどう酒がなくなったのです。宴会で酒はつきものですが、当時ぶどう酒はそれ以上の意味がありました。それは、人を歓迎し持てなすという意味がありました。ですから、ぶどう酒がなくなることは招いた人を歓待しないということになります。それは、結婚式をだいなしにし、人間関係を壊すものになりかねないことでした。 そこにイエス様の母マリヤがいました。親戚関係があったのかも知れません。その母がなんとイエス様に「ぶどう酒がありません」と言ったのです。普通に考えても、それは招かれたイエス様の問題ではなかったでしょう。しかし、母マリヤはイエス様に問題の解決を求めたのです。
私たちの人生に問題はつきものです。困ったことが起きてきます。私たちはだれに相談すべきでしょうか。あの母マリヤのように、まずイエス様に言うことです。「ぶどう酒がありません」率直にありのまま、自分の問題をイエス様に告げることです。それが、祈りです。祈りは難しいことはありません。その問題をイエス様に言えばよいのです。


2,神の解決

エス様は、何の関係があるでしょうと断られました。わたしの時はまだ来ていませんと答えられました。イエス様の来られた第一の目的は何でしょうか。私たちを永遠の滅びから救うことです。ただ私たちの生活の便利さのために来られたのではないのです。私たちを救うために来られた方です。ですから、わたしの時はまだ来ていませんと言われたのです。わたしの時とは、十字架にかかることです。十字架にかかって私たちの罪を背負い、身代わりに死んで私たちの罪を赦されることです。それがイエス・キリストの救いです。そのときはまだ来ていなかったのです。
しかし、母マリヤはイエス様に助けを求めました。そして、それは、そうすべきです。私たちは何でもイエス様に求めて良いのです。祈っていけないことは何もありません。何でも祈るべきです。求めるべきです。そうするなら、その中に神様の御業は必ず現され、神の栄光を見ることができるのです。
母マリヤは、台所で手伝っている人たちに言いました。「あの方の言われることを、何でもしてあげてください」。そして、僕たちがしたことは、清めの習わしで使う水瓶6つに水を80から100リットル入れることでした。大変な作業でした。彼らはそれでも従って水をくんだのです。もし、何でそんなことをするのかと言って文句を言ってしなかったら、奇跡を見なかったでしょう。僕たちは黙々と水をくんでそれを行いました。それが栄光の奇跡に繋がったのです。


3,栄光の現れ

水瓶の水を、僕たちは世話役の所に持っていきました。世話役は驚きました。今まで飲んだことのないほどの美味しいぶどう酒に変わっていたからでした。花婿を呼んで、なぜこんな美味しいぶどう酒を今までとっていたのかと言ったのです。なぜなら、酔う前に、一番美味しいものを出し、酔って感覚がわからなくなってから安物のぶどう酒を出すのが普通だったからです。それほどに素晴らしいものであったのです。
エス様は私たちを新たに造りかえてくださいます。水をぶどう酒に変えられる神様は私たちの心をも味気ないものから、味わい深いものへと変えて下さる方です。
多くの人たち、足の不自由な人や、目の見えない人、病気の人たちはイエス・キリストによって元気になりました。イエス様は私たちを回復させ元気にして下さいます。私たちにもその栄光が現されるものとさせていただきましょう。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)