柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「解放の祈り」使徒12章6-17節

多くの人はこの世の生活のことで心配します。しかし私たちはこの地上に永遠に住むことはできません。やがて死ぬときがあり、その後のことを考えなければなりません。
聖書は私たちに永遠のいのちがあることを語り、イエス・キリストは私たちにそのいのちを与えるために来られた方です。そのキリストの救いを弟子たちは命がけで伝えました。


1,福音宣教の困難

いつの時代でも、またどんなところでも福音を宣べ伝えることは容易ではありません。しかし、キリスト教ほど全世界に伝わった宗教は他にないと言えると思います。日本では、神社やお寺があり、仏教や神道は盛んですが、世界的に見るならそんなに広まってはいません。また、人口的にも数は少ないのです。今は、クリスチャン人口が20億を超えると言われる時代です。特にアフリカ、南米、アジアにおいて急激に増えています。主に、経済的に貧しい、病気等によって健康が損なわれたり、内乱等で戦闘状態にあり、命の危険にさらされているところが多いようです。いわば、死と隣り合わせであり、生きることの意味が明確に問われているようなところで、人々は本当の命を求めているのです。 
このときも、使徒のリーダーであったペテロは捕らえられ、死の危険にありました。すでに、イエス様の弟子の一人であったヤコブもヘロデの手下によって殺されていました(1節)。
しかし、私たちは迫害にあっても窮することなく、神様は必ず逃れの道、脱出の扉を開いて下さることを信じるのです。


2,神の助け

ペテロは牢に閉じ込められていましたが、二本の鎖に繋がれ、二人の兵士の間に寝かされ、戸口には番兵が監視すると言った厳重な警戒がなされていたのです。さすがの引田天功でさえも脱出不可能な牢でした。
ところが、奇跡が起こりました。天使が現れ、鎖が外れ、第一第二の衛所を抜け、鉄の門も開いて彼らは外に出ることができたのです。それはまさに奇跡でした。ペテロはまるで幻を見ていると思うほどだったのです。
しかし彼は、その後ではっきりと、主が御使いを遣わして彼を救われたことを悟ったのです(11節)。おそらく私たちも、ひやりとした経験があるのではないかと思います。もう少しで大きな事故に巻き込まれるところであった。大惨事に遭うことだったと思えるときがあったのではないかと思います。そういう中に、神様は働かれ、また時には御使いを用いて私たちを助けて下さることがあるのです。
当時ユダヤ人は、それぞれに守ってくれる神の御使いがいると信じていたようです。私たちにも、神様は御使いを遣わし、私たちを助けて下さることができるお方です。


3,祈りの力

しかし、それは偶然に起こったことではありません。ペテロが牢に閉じ込められていたときに、同じ信仰を持っていた人たちはどうしていたでしょうか。5節を見ますなら、「教会では彼のために神に熱心に祈り続けていた。」とあります。また、12節にも「大ぜいの人が集まって祈っていた」とあります。
彼が助かったのは偶然ではありませんでした。それは、祈りの結果だったのです。もし、その祈りがなければペテロはどうだったでしょうか。おそらく、過越の祭りの後で、多くのユダヤ人の前で見せしめとなり、殺されていたことでしょう。ところが、彼は祈られており、その祈りを神様が聞かれ、御使いが遣わされ、彼は奇跡的に救われたのです。ですから、祈りは奇跡を起こします。祈り自身に奇跡を起こす力はありませんが、奇跡を起こして下さる神様がその熱心な祈りを聞かれ、事をなして下さるのです。その祈りの場所はどこだったでしょうか。12節を見ますと、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家とあります。それは、かつてイエス様が最後の晩餐を弟子たちと共にし、十字架に死なれた後、弟子たちが集まって熱心な祈りが捧げられた二階座敷、ペンテコステの祈りがなされた所でした。 
そこは、教会となっていました。もちろん建物ではありません。信じるものが共に集まり、賛美し御言葉を守り、祈りを献げるところが教会です。ですから、私たちの教会も、もっと祈りを盛んにさせる必要があります。
話し合いでは、私たちの問題は解決しません。すべてのことは祈りによって解決するのです。それが、今日の聖書の箇所です。絶対不可能、最大のピンチも、神の奇跡、救いの御業が行われるのです。私たちもますます祈り、この時代の困難を乗り越えていくものとさせていただきましょう。


              (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)