柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「与える幸い」使徒の働き20章35節

使徒パウロは、彼の宣教地とも言えるべき、小アジア(今のトルコ)を巡回し、ミレトの地で、エペソの教会の長老達も招き彼の告別説教とも言えるべき最後のメッセージを語りました。
その中で彼は、与えることの幸いを人々に語ったのです。


1,与えられた恵み

キリスト教の一つの特徴に、「恵み」というものがあります。よく、恵まれたという言葉を教会の中で、聴くことがあります。今日の説教で恵まれれば幸いです。
「恵み」というのは、受ける価値・資格がないものが非常に善いもの、尊いもの、すばらしいものが与えられることが恵みです。ですから、私たちが、救われて、天国に入らせていただけることは恵みです。
私たちが、救われる、天国には入れる方法はただ一つです。
それは、イエス・キリストの十字架を信じることです。使徒パウロも、救われるのに苦労した人です。彼はユダヤ教徒であり、行いによって救われると信じていました。しかし、まじめにすればするほど、神から遠い存在であることがわかりました。そして、彼は復活キリストに出会い、恵みによって救われることがわかったのです(エペソ2:8)。
それは、信じるものがすべて救われるということです。救いは、恵みです。救われるはずのないものが、救われる価値のないものが救われるのは、恵みなのです。


2,与える幸い

しかし、幸いは少し違います。簡単に言うなら「幸せ」ということができます。聖書の「幸い」は信仰の産物、信仰によって生み出されたものと言えると思います。いわば、信仰を働かせることによって、神様が与えられる「幸い」―「祝福」であると言えると思います。
マタイの福音書五章において、山上の垂訓として有名な「心の貧しい人は幸いです」とイエス様が言われたことは、天国憲法であり、イエス・キリストを信じるものが身につけるべき大切なものです。その通りであるなら、イエス様が約束された祝福―幸いに与ることができるのです。そして、イエス様は、「受けるよりは、与える方が幸いである」とはっきり言われたのです。
ともすれば、私たちは、受ける方が幸いであると誤解しています。それは、明らかに誤解です。特に、「恵まれる」ということに捕らわれて、いつまでも私は受けなければならない、恵まれなければならない、と誤解しています。しかし、それは、主の喜ばれることではありませんし、実は、大切な祝福を失っているのです。それは、「献げる祝福」です。献げる事によって、神様は喜ばれ、褒めてくださるのです。やがて私たちは、天国に行くときがあります。まず、私たちはすべて、天国に行ける確信を持つ必要があります。それは、無代価で、行いによらず、信仰によって、イエス・キリストの十字架によって救われたことを信じることです。それは、恵みです。
しかし、イエス様は天国において、私たちにお会いされるとき「善かつ忠なる僕よ、よくやった」と言われて、私たちを褒めてくださることが、聖書に出ています。パウロは、義の冠が私をまっている、といっています(?テモテ4:8)。それは、人生の金メダルです。神によって与えられる栄光です。私たちは、その栄誉に与ることができるのです。
そして、その幸いは「受けること」ではありません「与えること」です。イエス様は与えられました。そして、最後の晩餐のときでも、弟子たちの足を洗われ見本を見せられました(ヨハネ13:14)。「汗と涙は、人のため」とはキリスト教信仰の真実であるといえます。
パウロは、与える幸いに人生が変えられた原動力はどこにあったのでしょうか。キリストを信じ、受け入れ、キリストが彼の心の中で働かれたのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)