柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストのいやしと救い」イザヤ53章4-5節

4月1日は教会のカレンダーで言いますと、「シュロ(棕櫚)の日」という日に当たります。それは、イエス・キリストがロバの子の背中に乗ってエルサレムに入場されたとき人々は手にシュロの木の枝を取りそれを道に敷き詰め、持っていない人は自分の上着をとって沿道に敷き、イエス様が来られるのを歓迎しました。
ところが、その後ユダヤ人の指導者祭司長や律法学者長老たちにそそのかされて、何とイエス様を十字架にかけたのです。


1,救い主を待ち望む

当時、ユダヤ人たちは救い主を待ち望んでいました。ユダヤ人の歴史を見るならば、苦難の連続であったと言えると思います。旧約聖書の時代を見るならば、エジプトでの奴隷生活、バビロンの補囚。新約後では、ユダヤ国家の崩壊と世界への離散、第二次世界大戦での大虐殺と苦難が続いているのです。
彼らはせつに、救世主―メシアを待ち望みました。そして、彼らの国をたちあげることを願っていたのです。ですから彼らの期待は自然と、力ある救世主を待ち望んでいました。旧約ではやがての日に、万軍の主が天の軍勢を従えてこの地上に来られるのを待っていたのです。


2,キリストに対する期待

エス様はおよそ30才の時福音宣教のために立ち上がられました。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と人々に告げ知らせました。そして、様々の奇跡の業をなされたのです。病の人を癒され、死んだ人を生き返らせ5,000人以上の人を食べさせ御自身が救い主であることを現されました。しかし、人々はイエス様を救い主として受けいれませんでした。それどころか、十字架に付けよと叫んだのです。


3,救いの預言

エス様が世に来られる750年前にイザヤは預言をしました。彼が預言したのは「苦難のしもべ」の預言でした。おそらくは、多くのユダヤ人はそのことに感心を払わなかったと思います。彼らは力ある救世主に自分たちの救いを期待していたからです。
しかし、神様の真の救いは、イザヤが預言した「苦難のしもべ」によって成し遂げられたのです。彼はただ病の人をいやしたと言うのでなく、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担われる」方です。私たちから離れておられる方ではなく、私たちのそば近くにおられるのです。まさに、キリストは歴史の中にナザレの大工の子としてお生まれになり、私たちの身近にともにいて下さる方なのです。
しかも、ここには十字架の預言があります(5節)。「そむきの罪のために刺し通され」という言葉がそのことを表しています。私たちは今この言葉を読むと十字架だとすぐ思いますが、イザヤの時代の人たちはおそらくそんな事を考えても見なかったでしょう。少なくとも、ユダヤ人の死刑は「石打ち」であって十字架ではなかったからなのです。驚くべき救い主の預言です。そして、これは偶然のことではありませんでした。
エス様については、バプテスマのヨハネが「見よ、神の小羊」と叫びました。小羊はいけにえであり、私たちの罪の身代わりとなって、神様に献げられる生命の代償です。
エス様が私たちの罪や咎過ちの身代わりとなって下さり、私たちは赦されたのです。神の裁きは、十字架の上で成し遂げられ、もはや私たちは再び裁かれる事はないのです。
それどころか、十字架には力があります。第一には平安が与えられる。それは、霊的な意味と物質的な意味があります。霊的には、心の平安です。物質的には必要なものが十分に与えられる供給されると言うことです。
さらに、癒しがもたらされます。十字架の血潮は私たちをいやし、私たちをきよめます。身体的な病いが癒され、心の悲しみや悩みも十字架の血潮によって私たちの心が新たにされ、癒されるのです。
十字架によって、私たちは新しく人生を始めることができるのです。


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)