柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「栄冠を受けるために」第1コリント9章24〜27節

先月2月12日から28日までカナダのバンクーバーで冬期オリンピックが開かれました。ご覧になった方も多いと思います。残念ながら日本は金メダルを取れませんでした。
女子モーグル上村愛子選手はメダルに届きませんでしたが、お母さんが手作りのメダルを手渡しその労をねぎらっていた姿が映っていました。何かしらうれしさが伝わってくる思いがしました。神様も私たちに信仰の冠を備えておられます。
私たちの人生もある意味で、スポーツと似たところがあると思います。


1,信じることに努める

スポーツ選手は競技に勝つために必ず練習をします。練習なしに試合に勝つことはまずないでしょう。練習量と試合に勝つことは比例していると思います。苦しい練習をすることによって自分の力、体力を増強させ、またどんなことが起こっても耐え抜く精神力を選手は鍛えるのです。
パウロは25節で「闘技をする者は、あらゆることについて自制します」と語り、27節で「自分のからだを打ちたたいて従わせます」と告白しています。競技の中では体重オーバーで失格になるものもあります。セルフコントロールは大切なことです。
古代ギリシャでは4箇所で大きな競技会が持たれたようです。そのうちの一つはコリントで行われました。イストモス大祭と名前がついていました。ですからコリントの人たちにとってもそこで行われる競技はよく知っていたと思われます。この手紙にも、走ることや拳闘といったことが出ています。拳闘とはボクシングのことです。当時からもルールがあったようです。ルールに従って、ボクシングをするからスポーツです。ルールを無視したらそれはもはやスポーツではなくただの喧嘩です。
ルールに従って勝敗を争うことがスポーツです。信仰にも守るべきものがあります。それは神の御ことばです。神の御ことばに従わなければ、まったく意味のない生き方となります。自由とは勝手気ままにすることではありません。本当の自由は神の恵みの中に生かされることです。たとえば金魚が私は自由になりたい。狭い金魚鉢の生活は飽きたと言って出て行ってしまったらどうでしょうか。おそらくすぐに死んでしまいます。ですから、私たちも神の恵み、神の御言葉から離れて行くと実は霊的に弱くなり、さらには死んだものとなるのです。
ですから、私たちは神の御言葉から離れていくと、27節の終わりにあるように失格者となってしまうのです。マラソンもコースを離れて走ると失格になります。私たちも神が与えて下さる恵みの道を離れないで信じてまっすぐに進みたいと思います。


2,福音の恵みを受ける

オリンピック選手は、金メダルを目標にがんばります。浅田真央選手も銀メダルで悔し涙を流していました。私たちの目標は何でしょうか。それは23節に出てる来る「福音」です。別の言葉で言うなら、「神の愛と赦し」と言うことです。イエス・キリストが十字架に私たちの身代わりとなり、死んで私たちのすべての負債・負いめを支払い、死の中からよみがえられて私たちに生きる希望と喜びを与えて下さることです。パウロは自らその福音に与りました。
彼はかつて、福音とは無縁の生活をしていました。彼には能力があり、地位も名声もありました。しかし決して満足はなかったのです。人から見てうらやましがられていても彼には喜びはありませんでした。それはパウロだけではありません。戦国時代の終わりに天下統一をなし、大阪城を築いた豊臣秀吉は「露と起き、露と消ゆぬる我が身かな、浪華のことは夢のまた夢」と辞世の句を詠みました。足軽の子から身を起こし、立身出世の人生街道を驀進した秀吉も、自分の人生は朝日が昇れば消えゆくはかない露のようなものだと告白したのです。いくら人より早く一番で走っていても、そのゴールが死であるならば全くむなしいものです。
しかし福音は、キリストのよみがえり、永遠のいのちなのです。死では終わらないのです。その先があります。天国があるのです。25節には「朽ちる冠と朽ちない冠」が出てきます。古代オリンピックで優勝者には月桂樹の冠が与えられました。その時はすばらしい冠かもしれませんが、それはやがて朽ちていくものです。ところがなんと神様は私たちに「朽ちない冠」を授けて下さいます。朽ちない冠とは三つあります。それは義の冠であり、栄光の冠そしていのちの冠です。ですから、イエス・キリストを信じる者は、人生の三冠王となって天国に迎え入れられるのです。なんとすばらしいことでしょうか。
「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」とパウロは勧めましたが、私たちもむなしい生き方、ゴールがどこかわからないとか、空を打つような拳闘をするのではなく、神がいつも共におられ、慰め励まして下さる「福音の道」を歩ませていただきましょう。


                (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)