柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しい愛 」 第1コリント13章1〜13節 

聖書は愛について語る書ですが、ここでは、愛の肯定的な七つの姿と、否定的な八つの姿が語られています。愛について語る本はたくさんありますが、愛をこんな風に語るのを聞くのはここだけではないでしょうか。


 1.キリストの愛

ここでは、「愛は」と言いながら、それをまるで誰か人のことを語っているように見えます。この13章は、パウロ信仰告白、愛の告白であって、“私が”と言う一人称で書いていると申しましたが、では4節からは自分のことを語っているのでしょうか。「私は寛容であり、私は親切です。また人を妬みません」と言っているのでしょうか。決してそうではありません。そうではなく、昔から語り継がれていることは、これはキリストのことであり、“愛”“キリスト”に置き換えて読むのだと教えられて来ました。すると次のようになります。
 「キリストは寛容であり、キリストは親切です。また人を妬みません。キリストは自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
こうすれば、なるほどよく分かり、納得することが出来ます。
しかし、13章は「さらにまさる道を示してあげましょう。12:31」と言うことばに導かれて始まっていて、わたしたちの信仰生活について語られたところのはずです。ですから、“愛”を“キリスト”に置き換えればそれで済むと言うことだけではなさそうです。ただ罪深いわたしたちは、とてもこのような愛を持ち合わせてはいませんが、キリストに愛された者として、その愛に応える生涯として、このような愛の生活が与えられるということではないでしょうか。


 2.愛の出発
愛は、努力ではどうにもならないことを、わたしたちはよく知っています。愛さなければならないと思ったり、愛されたいと思って見ても、どうにもならないものです。愛されさえすれば愛することが出来ると言うものでもありません。愛されて却って迷惑することもあります。しかし、キリストに愛された者は、何とかしてその愛に応えようとします。その時はじめて、真に人を愛することが出来るようになるのです。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。?ヨハネ4:10」と記されています。
これは、愛はわたしたちの内から始まることではなく、神が、キリストの贖いの死によって愛してくださったことに始まる、と言うことです。


 3.否定か肯定か
愛は寛容であり、愛は親切です」と言うところはいくらか理解できますが、「人を妬みません。自慢しませず、高慢になりません。……」などと言うことは、もとより愛とは関係のないことのように思われます。愛を想定するとき想像もしないことのように思われます。ところがよく考えてみると、これらのことは愛と深く係わっているのです。
愛は妬みません」と書かれていますが、愛は妬むものです。愛は惜しみなく奪うものであり、独占したいものですから、嫉みは当然のことのように起こってくる感情です。
自慢せず、高慢になりません」とありますが、愛は自慢したいものです。表面的には表さなくても、愛のゆえに誇ることもあるでしょう。
礼儀に反することをせず」とは、一見、愛とは関係のないもののように思われますが、周囲のことも考えないで、自分たちのことしか考えられなくなるのが愛の一つの姿でもあるのではないでしょうか。
それは詰まるところ「自分の利益」だけを求めると言う結果を生み出すようになるものでもあります。
怒らず、人のした悪を思わず」と言いますが、愛とは全面的に愛されなければ満足せず、言い換えれば独占しなければ止まないのが愛ですから、ときに怒りを抱くこともあり、恨みを抱く(口語訳)こともあります。
ですからわたしたちの愛は、この否定的表現をすべて肯定的表現にしなければならない愛(愛は妬みます。自慢します。高慢になります。礼儀に反します。)であり、自己中心的で、醜いものであると言わねばなりません。


 4.新しい愛

ではどうすれば、ここに記されているような愛が与えられるのでしょうか。それは次に記されていることに秘密があります。一体、愛とどのような関係があるのかと思うことですが、それはすなわち、「不正を喜ばずに、真理を喜びます」であります。
妬みとか自慢とは次元の違うことが語られているように思いますが、実は、先に取り上げたことは、愛についての人と人との関係でしたが、「不正を喜ばずに、真理を喜びます」とは、神と人との関係を語っているのです。これは、不正を喜ばないで神を喜ぶ、と言い換えてもいいのです。
愛とは、神を考えに入れない、人間相互の関係だけで済むことではなく、愛は、神の真理に従い、不正を退けることに始まるのです。
先に、愛は自己中心的で醜いものだ、と言いました。愛は、他の人に向う美しい行為だと誰もが思っていますが、同時にそれは自分を愛することなのです。そしてそれは、正義とか真理とは異なり、自己中心的罪の力に支配されたものなのです。
聖書が語ろうとしている本当の愛は、好きだとか、愛情があると言うことで計るものではなく、真理にかなっているかどうか、神を喜ぶことに基づいているかどうかで見極めるものだ、と言うことです。
アウグスチヌスは<自分を愛する者は、神を愛さない。しかし、神を愛する者は、真に自分を愛する>と言ったそうです。もう少し分かりやすく言えば、自分を第一に愛する者は、神を愛さない。しかし、神を第一に愛する者は、真に自分を愛する者となる、と言うことでしょう。
あなたの愛は、自分を第一とする愛でしょうか、それならその愛は、寛容でもなければ、親切でもなく、嫉みと自慢に満ちたものに違いありません。しかし、神を第一に愛するとき、神に造られ、神に愛され、救われた自分が分かるのです。こうして真に自分を愛することが出来るようになるのです。そこから、自分が神に愛されたように人を愛するようになりますから、その愛は寛容であり、親切であり、妬むことをせず、自慢しない者となるのです。神に愛されたことを真に体験した人は、神が寛容であり、親切に取り扱ってくださったように、人に対して寛容に、また親切になれるのです。
このように考えると、愛は、信仰を抜きにしては考えられないものであることが分かります。神とわたしの関係は信仰に基づくわけですが、人とわたしの関係も、信仰によってその愛が大きく変貌することを知ることが出来ます。すなわち神とわたしの関係から、人とわたしの関係へと発展するのです。


 5.信仰と希望と愛

その変貌した姿をさらに語ります。それは「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」のです。
愛は、「すべてをがまんし、すべてを耐え忍び」ます。愛する者は耐え忍ぶことをするのです。如何に裏切られても愛し続けることです。そして、愛し続けることが出来るのは 「すべてを信じ、すべてを期待する」からです。ここに繰り返し「すべて」と記されていますが、これは考えられる限りのと言うことです。
忍耐の背後に期待があることはだれでもよく知っています。一筋の光があるからこそ、そこに期待を置いて耐えるのです。しかし、すべてを期待するということは、期待できないと思われるところで期待すると言うことです。そのような期待は、わたしたちの力でできることではありません。それはすべてを信じることから来るのです。どんな時にも神を信じ、神に信頼して疑わないのです。「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました。ローマ4:18」と記されている通りです。
こうして信仰と希望と愛の関係が結び合わさって来るのです。この章の最後で信仰と希望と愛について語りますが、すでに4節〜7節でその伏線が引かれているのです。信仰と希望に基づいて、わたしたちの愛を新しくしましょう。神に愛された者として
聖書に記された愛、信仰による愛が、わたしたちの内に形作られるために、神に愛された事実を深く心に留め、この愛の中に止まることです。
神とわたしの関係が確立するとき、わたしと人との関係をも愛を基とした堅固なものに築き上げられるのです。これは生来の愛ではなく、新しい愛と呼ばれるべきものです。


                      (宣教者:六甲みどり教会牧師  岸本 望 師)