柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「私たちを負う救い主」 イザヤ9章6-7節

カレンダーでは11月最後の日曜日ですが、今日から待降節すなわち、イエス・キリストの誕生を迎える時です。今日から4週間がアドベント待降節)と呼ばれるときでキリストが私たちの所に来られることを待ち望むときです。
今日の聖書箇所は、そのキリスト誕生の750年ほど前にイザヤという預言者が、救い主がこの世に生まれることを預言したことばです。

1,救い主の姿

「名は体を表す」という言葉がありますが、ここに四つの名前が出ています。それはまさに、私たちすべての人に救い主とはどういう方なのかを示しています。

(1)不思議な助言者
英語ではワンダフル・カウンセラーとあります。すばらしい相談相手です。イエス・キリストは私たちにとっては、すばらしい助言者なのです。しかし、ワンダフルはすばらしいという言葉ですが、ただすばらしいだけでなく、驚嘆するというか驚くべき助言者です。まさにイエス・キリストは私たちに親身になって、話を聞き相談に乗ってくださる方です。
昨日もある方が教会に寄られて、話をし、お祈りをしましたがほっとして帰られました。私たちにはワンダフル・カウンセラーがおられるイエス・キリストが私たちの話を聞いてくださる。お祈りを聞いてくださり慰めを与える下さる、それは幸いなことであると思います。
そして、助言者と訳されていることばはもう一つ意味があります。英語で言うとプランナーです。それは、計画を立て、またその計画を行っていくものの意味があるのです。
最近ファイナンシャル・プランナーという言葉を聞きます。それは長年働いて退職金をもらった、これからどういう風に老後を過ごそうかと言う人が、まとまったお金の使い方を、運用の仕方を教えてくれる人です。
イエス・キリストは、地上の財産のことだけでなく、それこそ永遠の財産、天国での豊かな生活を助言してくださる方です。

(2)力ある神
力ある神とは、全能の神、天地を造られた創造主という意味ですが、直接的には力あるもの「勇士」という意味です。イスラエルはその当時、敵の脅威にさらされており戦いの不安がありました。そのときに彼らは神の名を呼び力を得たのです。自分たちには全能の神がついている。神は勇士であり勝利を与えて下さると信じたのです。イエス・キリストも「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。新約の弟子たちもそうですが、私たちも勝利の主と共に歩むことができるのです。

(3)永遠の父
ここに使われている永遠とは、単に永遠に存在するという意味ではありません。むしろ、時々刻々、何時でも何処でもどんな時でも、という時間空間を超えた存在の意味があります。
そしてイスラエルでは父とは、子にとって養育者であり責任者です。日本の父親とはかなり違うところがあると思います。
たとえばルカの福音書15章には放蕩息子と父親の話が出ています。日本では差し詰め、放蕩息子が財産もって出ていくなら、「もうおまえの父親じゃない」といって縁が切られるかもしれませんが、この放蕩息子の父親はそうではありませんでした。かといって、放蕩息子が帰ってきたから許してやったというのでもありません。その息子が、裏切って出ていったときも、財産を湯水のように使っていたときも、豚飼いに身を落としたときも、泥の中を這いずり回っているときでさえも、「わたしはおまえのお父さんだよ」という父親だということです。
何時でも何処でもどんな時もおまえの親だと言ってくれる父なのです。


2,私たちを負われる主

そして、最後に平和の君とあります。平和はシャローム、平安、繁栄、回復といった意味があります。そして「満ちあふれる」という意味合いも含まれています。
「わたしが与える平安は、この世が与える平安とは異なる」とイエス・キリストは言いました。この世の平安は、壊れやすいものです。また失われやすいものであり、盤石なものではありません。
しかし、キリストはまさに、その平和そのものであり、尽きることのない泉のように、平安がわき上がってくるのです。私たちが、この平安をえるためにできることは、私たちが「平和の君」である、イエス・キリストを自分の心にお迎えすることです。
6節に主権はその肩にあり、とあるのですが、すべてをキリストにお任せすることです。人生の主権を委ねるなら、キリストは私たちの心の内に「平和の君」となり、「平和は限りなく」と7節の始めにあるように、私たちの心に平安を限りなく湧きいずる泉のように与えて下さるのです。
そしてこの方は私たちをになってくださる方、私たちを背負って運んでくださる方です。主権は肩で担われます。この地球をも一つの肩で担われるお方です。しかし、さまよった小羊を見つけ出して、連れ帰る牧者は両肩に羊を背負って牧場に帰られる肩です。私たちをも両肩にになって運んでくださるのです。

この方にすべてを委ねお任せして、平安、喜び、力を得るものとさせていただきましょう。

                   
                      (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)