柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「召されたままで」 第1コリント7章17-24節

7章は結婚など男女の問題について書かれていて、それはこの章の終わりまで続きますが、17節から24節は、少し違ったことが記されているように見えます。それは、割礼と無割(18〜19)、奴隷と自由人(20〜21)というように区分できると思います。
しかし、詰まるところこれは、わたしたち一人一人の立場はどういうものであるか、と言うことが書かれているのです。「召されたままで」と言う題を付けましたが、要するにそのことがこの箇所の論旨です。
割礼と無割礼とか、奴隷と自由人などと言うことは、現代のわたしたちにはおおよそ関係の無いことのように感じられます。そこでまず当時の人々の悩み・問題としていたことについて考えて見ましょう。


1.割礼と無割礼 宗教的立場

第一に、割礼と無割礼についてですが、コリント教会を構成していたのは、割礼を受けたユダヤ人と無割礼の異邦人でした。
割礼については、創世記17章に記されている通りですが、一般に、割礼はユダヤ人の誇りであり、彼らはその割礼をもって、自らを神の選民として、祝福の下にあることの印とし、他の民族を<無割礼の者>と呼び、神の祝福から除外された者として蔑んでいました。
一方、他の民族からすれば、肉体に傷をつけるなどと言うことは、おおよそ文化とは縁遠い辺境の民、野蛮人のしるしとしか考えなかったのです。ですから割礼によって、ユダヤ人は他の民族を、他の民族はユダヤ人を、互いに蔑む原因となっていたのです。
コリントの町は、あらゆる人種が集まってくるところで、教会も自ずとさまざまな国の人々によって構成されます。ですからユダヤ人・非ユダヤ人と言ったような問題が起こっても当然でした。
その結果、コリントのように、ギリシャ・ローマ文化圏の世界で生きて行くためには、ユダヤ人であることを不利と考え、割礼の傷跡を恥ずかしく思って、それをなくそうとする者がいたようです。ユダヤ人が他の文化圏の人々と共に生きるようになることによって、民の誇りであった割礼はかえって劣等感のしるしとなってしまったようなのです。
しかし、その反面教会の中では、異邦人がクリスチャンになると、ユダヤ風の感覚に傾斜して、割礼を受けたいという動きもあったようです。この頃はまだ、教会にはユダヤ的傾向が色濃く残っていたのです。しかし、エルサレムにおける教会会議(使徒15章)では、すでにこの頃、割礼の必要はないと決定されていました。それにもかかわらず、いつも外形にとらわれ、物的見える形に走る人間の本性は、なかなか始末が悪く、相反する二つの傾向が教会に混乱を招きます。
そこでパウロは、割礼の民にはそのまま、無割礼の民にもそのままに、
神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。17」と語ります。そして彼が繰り返し語ったと思われる宣言が響きます。すなわち「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。19」と。ガラテヤ人への手紙では
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。6:15」と語ります。

 
2.奴隷と自由人 社会的身分

第二に、教会の中で問題となっていたのは、奴隷と自由人という身分に関する問題ですが、これも同様の論調で展開します
奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。21〜22
ここに逆説的論議を展開します。主にある奴隷は主に属する自由人であり、主にある自由人は主に属する奴隷である、と言うのです。
これはパウロ特有の人を煙に巻いたような言い方ですが、要するに主にあっては、奴隷とか自由人であると言う身分は、おおよそ意味の無いことで、主の者とされたという事実こそが重要なのです。
ですから再び「あなたがたは代価をもって買われたのです。23」と言う6章20節の宣言を繰り返し、主の者とされたことを強調します。ただここでは、
自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」に代えて「人間の奴隷となってはいけません。23」と警告します。
十字架の代価は、奴隷を自由にする代価であり、また自由なものをキリストの奴隷として買い取る代価でもあります。人は十字架の代価によって罪から自由にされると共に、キリストの奴隷として服従と奉仕に生きるために召されているのです。
要するに人は、社会的身分がどうであっても、周りの人の目を気にしてその評価に振り回され、自分を見失って人の奴隷になっていることを指摘しているのです。
神のものとされたキリスト者は、人を相手とし、人の目・人の言葉・人の評価に振り回されるのではなく、主にこそ従うべきこと・常に神の前に立っていることを、心に留めるように勧めているのです。


3.召されたままの状態で

そこで、わたしたちの問題として、人が真にキリスト者として生きていく上で大事な、二つのことが記されています。ひとつは「おのおのが、主からいただいた分に応じ」、もうひとつは「神がおのおのをお召しになったときのままの状態で 17」と言うことです。
召されると言うことは、聖書の中で最も重要な言葉のひとつです。それは、召されると言うことが常に救いに関係があるからです。救われると言うことと召されると言うことは、同じことを意味しています。
教会では、[1]亡くなられた方を召されたと表現します。また、[2]いま生きていて救いに与った者も召されたといいます。[3]それだけでなく、主のご用のために献身した者も、主に召されたと言います。

召されると言うのは、お呼びになると言うことであり、神がわたしたちをご自分のものとなさると言うことです。
罪の中に居た者をご自分のものとするために呼んでくださり、地上の使命を終えた者をご自身のみ側に呼んでくださり、この世の務めにいそしんで居た者を神のご用のために呼んでくださること、それが召されると言うことです。要するに主を信じて救われた者はみな召されたのであり、神のものとされたのです

神のものとなると言うことは、なんでもない事のように思われるかも知れませんが、それほど簡単なことではありません。なぜなら、もし神のものでなければ、わたしたちは誰のものなのでしょうか。
自分は自分のものに決まっている、と当然のことのように人は考えます。確かにそうに違いないのですが、それならそれはあまりにも頼りにならないことではないでしょうか。なぜなら、
大事な決断をしなければならないときに、人に相談せずには居れないのがわたしたちの実情でしょう。そしてその結果、人の言葉に左右され、周囲の目を気にし、自分が自分の自由にならない現実を突きつけられるのです。
ですから、そのような者が、神に召され、神のものとされると言うことこそが、救いとなるのではないでしょうか。なぜなら、神のものとされたことによって、周囲を見渡したり、人の言葉に振り回されたりせず、神のものとして神に従いさえすればいいのですから。
神に召されたと言うこと、神が必要としていて下さると言うことでもあります。自分の存在・自分の働きが、どんなに小さく貧しく見えても、神はわたしを求めておられる・わたしを必要としていて下さる、と言うことです。
ですから、自分を過大評価することも、過小評価する必要も無く、主から賜った分に応じて、召されたままの状態で主に従って歩めばいいのです。

[1]現代では、奴隷制度は無くなり、誰もが自由人であるはずですが、問題はさらに複雑化し、深刻化しています。自由であるはずのわたしたちは、果たしてどれほど真の自由を味わっていることでしょうか。時代の傾向に押し流され、流行に支配され、人の言葉・人の評価に縛られ、本当の自分を見失っているのが現実ではないでしょうか。
[2]一方、割礼が神の祝福のしるしであるなら、わたしたちは誰も割礼を受けていないので、神の祝福は得られないのでしょうか。
そうではありません。割礼はただ神の民・神に召されたと言うしるしであって、大切なのは神のものとされたと言う事実です。しるしよりも事実が大切なのです。
本来、神のものとして造られたわたしたちは、罪のため神を見失い、自分の好き勝手に・自由に生きてきたようですが、現実は、罪の力に支配され、振り回されて生きてきたのです。そのような者を神は、御子の血によって買い戻してくださり、再びご自分のものとして召して下さったのです。
この事実は、社会的身分とか立場を超えて、何ものにも代えられない喜びとなるはずです。主に召され、主のものとされたと言うことは何にも代えられないめぐみですから、周囲の人々と比べて自己を過大評価や過小評価することなく、ありのまま素直に主を喜び、召されたまま、すなわち現在のおかれた立場で喜んで主に従いましょう。


                   (説教者:六甲みどり教会 牧師  岸本 望 師)