柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の愛の冒険」ルカによる福音書2章8〜20節

『・・・それが、あなたがたに与えられたしるしである』(10〜12節)とは、飼い葉桶がイエスがおられる目じるしだということではない。飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見て、救い主をお送りくださった神の愛を、神の謙(へりくだ)りを、神が人の世に直接ご介入くださったことを見ることができる、それが「しるし」ということなのである。
 主イエス・キリストの来臨も再臨も「アドベントアドベントゥス:到来・到着)」と言われ、この言葉から派生した「アドベンチャー(冒険)」である。「どうして、こんな私のところに」との思いを持ちつつ、それほどまでして、神は愛を現すために冒険をされるのである。真の冒険とは、御子がご自身の本来の在り方を捨ててこの世に人となって来てくださったことであり、そして私たちが、このお方に向かって生きることである。
 

1.その冒険に身を委ねる
(1)一口に「神の愛の冒険」と言うが、罪と悪との悲しみに満ちた世界、神の救いの招きに対して抵抗し受け入れようとしない世界に独り子を送り込むという冒険であった。しかも、そのような事態をどのように受けとめてよいのか分からない私たちにご自身から近づかれて、交わり、一つになりたいために到来された神の愛の冒険であったのである。
 その到来のお姿たるや『・・・寝かしてある(κειμαι)』(12節、16節)状態においてである。この語は、多くは人間に関して用いられているが、主イエスに関しては、この箇所と十字架の死の後に主の体を葬って『墓に納めた』(同23章53節)だけである。横たわっているという、主イエスが全くの受け身になられた、父なる神に対して全く信頼して身を委ねられたお姿は、飼い葉桶に始まり、全生涯を貫き、ゲツセマネの苦闘と十字架の贖いの死に至っている。
 全ては、御子イエスが御父に無条件の信頼をされ、ご自身の全てを与え尽くされ、私たちと共にあることを求められた愛の冒険であった。

(2)このように、クリスマスが神の愛の冒険であるなら、私たちもまた冒険へと招かれている。即ち、救い主イエスとただ微(かす)かに接するだけを願うのではなく、神の愛の懐に、十字架と復活において現された救いの中に丸ごと飛び込み、神の愛と御胸(ご計画)に身を委ねるという冒険である。
 『きょう・・・あなたがたのために救主がお生まれになった』との「今日」とは、最初のクリスマスの出来事の日のことであるが、イエスを救い主、また主の主と受け入れるとき、「今日の私たち」の出来事となるのである。「すべての民に」「あなたがたのために」とは、今の私たち一人ひとりが含まれているのであり、「わたし」抜きにクリスマスの出来事は起こらなかったのである。その意味で、「クリスマスは決断の時である」、また「人間にとってこの喜びは、信仰の再出発をすることである」。
 

2.冒険の人生に押し出される 20節
 そのような、神に身を委ねる歩みは、自分の領分に閉じこもらないで、安住しないで、自分の殻から出て、冒険の人生に押し出される。『・・・・見てこようではないか。・・・・そして急いで行って・・・・捜しあてた。・・・・人々に伝えた。・・・・神をあがめ、またさんびしながら帰って行った』(15〜20節)とあるように、自分たちが羊飼いであることを恥ずかしがったり、つまらないと思ったりしないで、また過去に捕らわれないで、支配されないで、新しい生き方が拓かれたのである。そこには、他者に心を向けさせ、他者と出会わせ、他者の魂と人生に関わらせる新しい歩みがある。
 羊飼いたちは、それまで人から教えを受けることはあったとしても、人に救い主のことについて話すことはなかったであろう。しかし、クリスマスの出来事に出会った彼らは、人々に向って神の愛の冒険=神の救いを語ったのである。本来の立場からはみ出した行動であったと言えよう。クリスマスの出来事はそれだけの力がある。
 『帰って行った』という私たちの日常の場は、新たにキリストが担ってくださる所である。そこで、私たちも冒険の人生に押し出されるのである。これが、神の愛の冒険に生きる、クリスマスに生きる姿である!

(柏原教会牧師 川原崎 晃)