柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しい人を着る」エペソ人への手紙 4章17~24節

 私たちは時に失敗し、落ち込んでしまうことがあります。自分の心が新しくなればと願います。私たちは自分の心を自分で新しくできませんが、神様は私たちを新しくして下さいます。

 

1,むなしい生き方をやめる


 パウロはエペソのクリスチャンたちに厳粛な心を持って勧めました。
 エペソは偶像礼拝の盛んな町で、多くの人がこの世の富や快楽を求めていたのです。
しかし世の富・快楽は人の心を満たすことはできません。欲望には果てがないのです。
ですから、パウロは「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」と言ったのです。むなしい心とは、喜びも感謝も充実感もない空っぽの心です。

 それはローマ1:21「神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その心は暗くなったのです」とパウロが言った心です。

 私たちはそうであってはなりません。なぜならば、その行き着く先には、永遠の滅び―死が待っているからです。

 異邦人とは、外国人という意味ですが、真の神を礼拝しない神を信じない人たちという意味もあります。私たちも以前は異邦人でした。

 16節には「無知と頑な心」とありますが、真の神を知らずまた、神を恐れない者であったことを思います。ですから、死に対する恐れもなく、悪を行うことにも無感覚であったのです。「これくらいのことをしても悪くない。みんなやっているんだから。一度くらいだったらいいだろう」と言って罪を犯してしまうのです。
「好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになって」とありますが、あの強大なローマ帝国も内側から道徳的腐敗により分裂し、やがて滅びていったと言われています。

 私たちはそうであってはならないのです。確かに異邦人の中に生活していますが、この世の習わしに従って滅びていくのではなく、キリストによって永遠のいのちを与えていただかなければならないのです。

 

2,古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る

 私たちはかつて異邦人であり、神のいのちから遠く離れていた者でした。しかし神の憐れみにより、イエス・キリストの救いの御業によって罪の滅びから救われたのです。
私たちは 神のいのち―永遠のいのちにあずかる者となったのです。

 それはどこから来たのか。 20節 21節には「キリストを学ぶ」「キリストに聞く、キリストに教えられている」とあります 。

 聖書から私たちはキリストについて学ぶことができるのです。なぜなら、真理はキリストにあり、キリストご自身が「わたしが道であり、真理であり、いのちである。だれでもわたしによらなければ父のみもとに行くことはできない」と言われたからです。

 この真理とは、救いの真理であり、神のいのち―永遠のいのちのことです。ですから、私たちの受けるべき救いは、イエス・キリストを信じることにあります。

 さらにパウロは二つの明確な、私たちがなすべきことを示しています。
一つは「古い人を脱ぎ捨てること」もう一つは「新しい人を着ること」です。古い人についてはローマ 6:6で「古い人がキリストとともに十字架につけられた」とパウロは語り「罪から解放されている」と言っています。私たちは罪から解放されているでしょうか。また古い人はエペソ4:22に「人を欺く情欲によって腐敗していく」とありますが、欲望によってますます滅びに流されて絶望の谷底に陥ってしまうのです。ですから私たちはこの古い人を脱ぎ捨てなければなりません。そして新しい人を着るのです。

 新しい人とは「真理に基づく義と聖」すなわち、キリストご自身の性質を私たちが着ることです。しっかりと身につけることです。キリストが私たち自身を覆って下さり私たちを守って下さるのです。

 ですから私たちは、心の中の古い人を脱ぎ捨て、そして新しい人キリストを着る、それは外側のことではなく私たちの内側、すなわち23節にある「霊と心において」とあるように、心の深みにおいて内住のキリストすなわち御聖霊によって、日々新しくされ続けられるのです。

 「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ。全てが新しくなったのである。」2コリント 5:17

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)