柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「義の奴隷となる」ローマ6章16-22節

今日はこの箇所から「義の奴隷となる」と題して聖書の御言葉を学びます。


1,私たちは奴隷である

16節に「奴隷」という言葉が出てきます。私たちは奴隷にはなりたくない自由でいたい、と願うのですが現実はどうでしょうか。「私は誰にもしばられたくない、自分で考え自分で決断し行動するんだ」と言っても、実際は何かの奴隷になっているのです。
この世においては、ほんとうの自由はありません。金の奴隷になったり、偉くなりたいという名誉欲の奴隷になってしまうこともあるのです。そして、何よりも大切な自分自身を見失ってしまうのです。


2,義の奴隷となる

パウロはここで、人間を大きく二つに分けると、罪の奴隷となっているかあるいは従順の奴隷になっているかである、と言っています。
罪の奴隷となっている人の主人は神に敵対するサタンです。最初の人アダムとエバは神によって造られました。彼らは決して神の奴隷ではなく自分自身の人格を持ち自由であったのです。ところが、彼らは「肉の弱さ」のために罪の奴隷となりサタンの言うことを聞いて罪を犯し、不法を行うものとなったのです。不法とは、決めたことを破ると言うことです。彼らは、神様が「取ってはならない、死ぬから」と言われた木の実をとって食べ、霊的に死んだもの、汚れと不法に身をゆだねる罪の奴隷となってしまったのです。
それは、アダムエバだけでなく、私たちも「肉の弱さ」を持ち、不義を行う罪の奴隷であったのです。それは決して、自由ではありません。喜びも感謝もない行き着く先は「死」であると聖書は言っています。
クリスチャンになって私たちは救われたことを喜ぶのですが、しばらくして経験することがあります。それは、信仰生活に空しさを感じることがあるのです。自分のやっていることが本当に正しいんだろうか、いや何か物足りない、義務的な律法的な生活をしているんではないかと悩むことがあります。
それは解決できます。私たちの「手足を義の奴隷としてささげ、聖潔に進む」(19節)ということを行うことです。私たちはかつて、罪のどれとして不法に進んでいました。そして「義である」ことについては何の価値も見いだせませんでした。自分中心に歩んでいたものです。ところが聖書は言っています。「何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です」(21節)とあるのです。
私たちは永遠の滅びに向かっていました。罪の奴隷となってその報いである、死を受けなければならないものとなっていたのです。


3,義のもたらすもの

ところが、神様はそんな私たちをあわれみ、変わらない愛をもって救いに導いて下さいます。
17節に「神に感謝すべきこと」とありますが、私たちは罪の奴隷から、救われ解放され義の奴隷となることができるのです。それは「伝えられた教えの基準」によるものです。簡単に言えば、聖書すなわち神のことばによって救われ変えられるのです。罪の奴隷から義の奴隷になることができると言うのです。
その教えの基準は聖書の言葉であり、聖書が伝えているのは、イエス・キリストが私たちの罪を負い十字架に代わりに死んで、負債を支払って下さったと言うことです。しかも、キリストは死んで終わりでなく死の中からよみがえられた、復活されて永遠のいのちを私たちに与えて下さることなのです。
罪の行き着く先は永遠の滅びです、しかし、神の義は私たちに永遠のいのちを与えて下さるのです(22節)。
私たちは選ばなければなりません。罪の奴隷となるのか、義の奴隷となるのか。
私たちは、自分自身をもう一度義の奴隷として神にささげましょう。私たちの心の内から汚れ不法を、十字架の血潮によって洗いきよめていただき、聖潔の実を結び永遠のいのちに満ちあふれさせていただきましょう。


           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)