柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「タラントの譬え」マタイ25章14-30節

    中心聖句、「良い忠実な僕よ、よくやった」(21節)


今日のところは、神の国の「タラントの譬え」と言われている箇所です。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちに自分の財産を預けました。一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを預けて旅に出かけました。5タラント預かった者はそれで商売をして、ほかに5タラントを儲けました。2タラント預かった者も、ほかに2タラントを儲けました。しかし、1タラント預かった者は、主人のお金を盗まれないように、穴を掘り、保管しておいたのです。主人が帰ってきて精算を始めた時、5タラント預かった者と2タラント預かった者は、「よくやった」とほめてもらったのですが、1タラント預かった者は反対に、厳しく叱られたというのです。
タラントは、英語の「タレント」という言葉のもとの言葉であると言われています。タレントというと、俳優などの特別な才能と思われますが、もともとはそういう意味は全くありませんでした。これはお金の単位です。1タラントは今の金額で言えば約6,000万円ぐらいになります。相当なお金の単位と考えられます。この譬え話の中で、1タラントを預かった僕が、帰って来た主人に叱られていますが、何故叱られたのでしょうか。この譬え話から、私たちに何を語っているのかを考えてみたいと思います。


(1)まず神様から受ける
私たち各人には能力差があります。神様は私たちの能力に応じて、それを生かすことができるようにと、さまざまな宝物、財貨を与えてくださっています。過大な要求はされていません。私たちにとって、自分が問われるのは、自分の人生をどのように見ているかということです。神様は私たちに賭けておられるのです。私のようなものを信頼するのは、大きな賭けであります。競馬でいえば、いちばんやせた見ばえのしない馬に賭けるようなものであります。イエス様は私たちを信頼し、そして今日も期待しておられることを、しっかりと覚えなければなりません。私にかけておられるその信頼と期待にこたえていくことが大切なことであります。
私は、地方公務員として勤務していた頃のことですが、係長に昇格して、知事さんから、直々に辞令が交付されることになりました。緊張して知事室に入りました。一列に並んで一人一人に辞令が渡されるのでありますが、いよいよ私の番になって辞令をいただくとき、知事さんは「よろしくやってください」と言ってくれました。どきどきしながら、思わず「はい」と言って辞令を受け取りました。知事さんは一人一人に辞令を渡すとき、それぞれが、その任された職務を全うしてほしいと願いながら渡していたにちがいありません。
神様が私たちに、それぞれタラントをお預けになるとき、「よろしくやって下さい」との願いをを託して預けられるのであります。


(2)ゆだねられたものを管理する
私たちが管理しなければなららいものがいくつかあります。心(霊)、理性(頭脳)、体(肉体)、財、ことば、時間などがそれです。私たちの人生というのは、神様から預けられたものを生かすか殺すかという、そういう課題を負っているのだということであります。
旅行から帰ってきた主人は、1タラントの僕に対してはきびしくその非を責めたのでありますが、何故でしょうか。
今日(こんにち)、振り込め詐欺によってお金をだまし取られるとか、銀行に預けたお金が、いつの間にか誰かに勝手に引き出されて、せっかくのお金が人に盗まれるという事件がよく報道されています。この僕は主人の金を使い込んだわけではなく、預かったままを保管していたのだから、責められる理由はないように思われます。しかし、実はこの僕は1タラントを彼に預けた主人の信任に対して応えなかったという点で責められなければなかったのであります。
私たちにとって、罪を犯さないことが正しいことでしょうか。「マネキン人間」という話があります。ショーウインドーに飾られているマネキンは、嘘は言わない。他人のものは盗まない。姦淫は犯さない。何一つ罪を犯さないのであります。しかし、それで彼は正しいと言えるでしょうか。私たちにとって何も悪いことをしないことが正しいのではありません。良いこと、すなわち、神様の御旨に従って、神様の期待に応えて、生きることが正しいことなのであります。


(3)精算の喜びを思い描く
この譬え話は、終末が来ること(主人が帰ってくること)が前提になっています。神様は、人を創造されるとき、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記1:26)と言われました。そこには神様の人に対する大いなる期待が秘められているのであります。私たちはみんな神様からこのような期待をかけられて造られた者であります。そのような人間が、ただ悪いことをしないだけでは神様の前に正しいとは言えません。むしろ神様の、みこころにかなうような生き方をして、はじめて神様の前に正しいと言えるのであります。
私は20年ほど前に、囲碁の通信講座を受けて、囲碁の勉強を始めました。そして、15年ほど前に、初段の認定を受けることが出来ました。囲碁の勉強をすることが正しかったかどうかは分かりません。私たちは皆、神様から篤い期待をかけられているのです。自分に与えて下さっている頭脳、能力、時間、肉体などを用いて、失敗を恐れず、積極的にチャレンジして、神様のご期待に応えていく者でありたいと願います。



            (宣教者 由良教会牧師:貴志八三郎師)