柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「献げる豊かさ」 第2コリント8章1-9節

今日は「献げる豊かさ」という題で?コリント8:1〜9から共に学びたいと思います。教会に行くのにどれくらいかかりますか、と尋ねられますが。教会は原則的に無料です。お金はいりません。でも礼拝で献金があるじゃないかといわれますが、献金は強制ではありません。自発的に自分の真心から、神に献げるものです。献金の意味を聖書の言葉から知りたいと思います。


1.献金とは喜びである

1節に、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを知らせるとパウロは言いました。コリント人への手紙ですが、マケドニヤのことが紹介されています。マケドニヤは今のギリシャです。海岸地方は港があり、貿易がなされ豊かですが、マケドニヤは山の方にあり教会も経済的に裕福とは言えませんでした。 そのころパレスチナに飢饉がありました。エルサレムの教会の人たちも大変な状況でした。そのニュースを聞いて、マケドニヤの人たちは、熱心に献金しました。その金額はどれだけか、この手紙に書いてありません。聖書のどこにも数字は出てきません。しかし、数字以上に大事なことが書かれています。
それは2節で明らかです。苦しみのゆえの激しい試練とありますが、それでも彼らはくじけることなく、ひるむことなく信仰を貫いて、献げたのです。きわ立った産業もなく、貧困に喘いでいる人も少なくなかったでしょう。それでも彼らは喜んで献げました。どうしてそれができたのか。満ちあふれる喜びとあります。彼らの心の中には、満ちあふれる喜びがあったのです。物質的には乏しくても、愛には豊かであったのです。それはまさに泉のように内からわき上がるものです。
私たちがキリストにつながるつまり信じると、キリストの愛喜びが私たちの内からあふれ出ます。ヨハネ4:14で「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水がわき上がる」とキリストはいわれたのです。
マケドニヤの人たちは、まさにキリストによって潤され、満たされ、溢れる喜びとなって、感謝して献げる人となったのです。


2.献金とは自分を献げることである

よく、献金とは献身であるという言葉をききます。それは5節をみますと、「まず自分自身を主にささげ」、とあります。献金はお金の額ではありません。むしろそれは私たちの心を神にささげることです。
マルコ14:41〜44には、レプタ銅貨二枚入れたやもめの話がでている。しかし、イエス様は知っておられた。生活費全部を投げ入れた、といわれたのです。献金は金額ではありません。神様の恵み、神様の愛に応答する私たちの心です。
貧しいやもめは、有り余る中から献げたのでなく、生活費全部を投げ入れたのです。ですから、私たちは、強いられてするのでなく、喜んで、そして神の御心に従って、まず自分を主にお献げして、祈って献金するものでありたいと思います。


3.献金はキリストの富の豊かさである

9節に主イエス・キリストの恵みを知っているとパウロは言いました。クリスチャンもその恵みを知っているはずです。
私たちは、健康・財産・知恵・力・富は神様が与えて下さっていると信じます。そのこともすばらしいですが、もっと場らしいことがあるのです。それは、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた、ということです。それは、神の御子としての栄光も富も名誉も地位もあらゆるものを捨ててくださったのです。それは何のためかというと、私たちを救うためです。それは私たちの心の貧しさです。人に分かち合うことができない。助けることができない。まさに今は、心の貧困の時代だと言えます。愛に飢えている時代であり、そしてだれも満足していきていけない時代です。そのむなしさから救ってくれるのは、イエス・キリストだけです。
私たちを救うために、天の御位も栄光もかなぐり捨て、それどころか貧しい身となり、罪は犯されなかったけれども、私たちと同じ弱さを身に受けられたのです。そして、私たちの所に、来てくださいました。そして、私たちの愚かさ、罪深さを知られ、それでも私たちを愛される方です。
そして、ついには、逮捕され、ムチでたたかれ、偽りの罪で裁かれ、十字架に掛けられたのです。それでも、一言も愚痴をこぼすことなく、嘆くことなく、あの苦しみの十字架の上で父よ彼らをお赦し下さい、と祈ってくださったのです。これほど、心砕かれた、謙遜な姿は他にはありません。実に私たちは、そのキリストにより、すべての罪は赦され、愛されるものとなったのです。そのキリストの貧しさにより、私たちは、キリストの愛に満たされる者と変えられたのです。

キリストの愛に応答して私たちはお献げしたいと思います。

                       (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)