詩篇126篇は、神の民の繁栄の回復を求める祈り。これは教会の祈りでもある。
1.過去の恵みと喜び
イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放は、絶望的な状態からの回復であり、夢のような出来事であった (1節 )。
これは主のなさった「大いなること」(2、3節 )であり、キリストによる救いのひな型。私たちが罪の奴隷から解き放たれ、神のものとされたことこそ主の大いなる御業であり、夢のような出来事。教会においても、神はこれまでに、開拓から教会形成、成長と宣教の拡大など、大いなることをなされた。
2.現在の祈りと涙
喜びをもって故国に帰った民は、荒れ果てた国を見て心を痛めた。そして残りの民の帰還と都の復興を祈った (4節)。
教会も各時代において神の恵みに感謝しつつ、救霊のために祈り、その時直面している問題のために涙の祈りをささげてきた。それは今も変わらない教会の祈りである。
3.将来の望み
この涙の祈りは、必ず聞かれ、喜びに変えられるという望みの確信が告白されている(5,6節)。涙をもって絶えず出て行き種を蒔く(祈り続ける)者は、必ず束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。
今の教会が、これまでの先生方や聖徒たちの祈りと歩みの上に築き上げられたように、今の私たちの祈りと歩みは、将来の教会の基礎となる。
涙は必ず喜びに変えられる。 蒔く者と刈る者は異なることがあるが、やがて天においてともに喜ぶ時が来る (ヨハネ 4:36、37)。収穫の喜びの時を期待し、 涙の祈りとともに種を蒔こう。
(宣教者:垂水教会 小平 徳行牧師)