柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「ここに愛がある」1ヨハネ4章9-10節

ある大学の先生が、本を出版することになりました。そのとき出版社の営業の人が挨拶に来て言ったそうです。先生、中身より題です。「○○○」という本もよく売れました。内容より、題です。そしたらどんな題が良いのかと尋ねたところ、幸福とつければ必ず人は見ます。と言ったそうです。

どんな時代でも人は幸せになりたい、そんな思いがあります。おそらく、今日来られた人も、どうしたら幸せになれるのか考えておられると思います。

幸せの一つの物差しは、「自分がどれだけ愛されているか」と言うことにあるのではないでしょうか。自分が愛されているということに私たちは幸せを感じます。

いわばそれは、人との交わりの中にあると思います。日本の哲学者三木清という人は、「孤独は山の中にあるのではなく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである」と言いました。言い得て妙であると言えます。いわば、幸福の裏返しは、孤独、むなしさ、無気力といったものではないかと思います。

それは、どのようにすれば解決できるでしょうか。別の言葉で言えば、心が満たされるということです。心が満たされることによって、私たちは幸福になれるのです。充実感が持てるのです。

数学の天才と言われたパスカルも一時期孤独に陥りました。しかし、そんな彼を活かしたのはキリストを信じる信仰であったのです。彼は信じることによって立ち直り、体は弱かったのですが、充実した人生を得ることができました。彼の考えは一つにまとめられて本になっています。有名な「人間は考える葦である」と言った言葉もその中にあります。

さらに劇的に人生が変えられたのは、聖書に出てくるパウロではないかと思います。彼はキリスト教に反対する人でした。クリスチャンを捕まえ次々と牢屋に入れたのです。しかし、彼の心は充実していませんでした。そうすればするほど、むなしく、心は孤独でいっぱいでした。そのことは聖書に出てきます。そんな彼が、充実した人生に変わる出来事がありました。なんと、復活したイエス・キリストに出会ったのです。彼はキリストが十字架にかけられたのを知っていました。しかし、理由がわかりませんでした。ところが、復活のキリストに出会ってその意味がわかったのです。

それは「自分が罪人である」ことが解ったのです。無実のクリスチャンたちを鞭でたたき、縄で縛り上げ牢に入れる、大変なことをしていたのが解ったのです。そして、罪が解ったときに、十字架が解ったのです。なぜ十字架が必要なのか。自分の罪が赦されるために十字架が必要であることが解ったのです。

今、十字架は世界中で見られます。日本でも見られます。教会にもついています。若い女性も十字架のネックレスをつけています。なぜ、十字架でしょうか。それは、赦しの印です。あなたの罪を私が十字架で赦したという、キリストの愛の印です。

キリストは罪を犯されませんでした。しかし、私たちの罪を赦すために身代わりとなられたのです。その身代わりの死によって私たちの罪が赦されるのです。

その証拠にパウロはイエス様を信じました。自分の今までの罪が十字架によって赦されたことを信じました。その信仰により彼は、孤独からむなしさから立ち上がることができたのです。十字架によって愛されている、赦されている。そして、キリストは死からよみがえられて、私にも永遠のいのちを与えて下さった。そう信じたのです。信仰によって彼は変えられました。愛の人、忍耐の人に変えられたのです。

私たちも変えられます。キリストの愛により、十字架によって私たちの心も、キリストの愛に満たされ、罪が赦され、喜びに満たされるのです。

(宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)