柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「全ての人への喜び」 ルカの福音書 2章8∼20節

 クリスマスおめでとうございます。皆様と共に、救い主イエス・キリストの御降誕をお祝いできることを感謝します。クリスマスの喜びは全世界に、そして全ての人に今日も伝えられています。それは「あなた方のために救い主がお生まれになりました」というクリスマスメッセージが大切だからです。キリストは私たちを救って下さる。それは永遠の滅びから私たちを救い、永遠のいのちに与らせて下さる神様の大いなる約束です。そのことの故に私たちは喜ぶことができるのです。

 

1,最下層の人々に

 この喜びのおとずれ、救いが誰に最初に伝えられたのか。 良い行いをしている人なのか。裕福な人なのか。そうではありません。この世で最も貧しい人たちに喜びの知らせが伝えられました。

 野宿をしていた羊飼いたちです。この時、ローマ皇帝から住民登録の命令が出ていました。それでマリアとヨセフはナザレからベツレヘムに行って登録したのです。彼らは貧しかったのです。家畜小屋で泊まらなければなりませんでした。しかし、羊飼いたちはそれ以上に貧しかったのです。おそらく住民登録もしなかったでしょう。家もなかったでしょう。数にも入らない人たちでした。その日暮らしの生活で将来の夢も希望もな かったのです。その最下層の人たちに喜びの知らせが伝えられたのです。

 そのような彼らに、主の使いは現れ、彼らは神様の栄光に明るく照らされたのです。それは大きな驚きでした。御使いは「あなた方のために救い主がお生まれになりました。」と告げたのです。最下層の羊飼いたちのために、取るに足りないまた栄光を受けるにふさわしくない、その人たちに神様の栄光は現されたのです。この羊飼いたちはエルサレムの近くにいました。もしかしたら神殿で犠牲として献げられる羊を飼っていたのかもしれません。ですから犠牲として献げられるために飼わ れている羊をかわいそうに思ったかもしれません。人は罪を犯す。その罪を赦すために羊が人間の身代わりとなって犠牲になる、その羊を彼らは世話をしていたのです。しかし御使いは「あなた方のために救い主がお生まれになりました。」この福音を聞いたのです。そして天の軍勢が「天には栄光が神にあるように。地には平和が御心にかなう人にあるように。」と賛美したのです。それは真に私たちの大きな問題、罪が赦され、神の栄光にあずかり、心が平安になる。キリストがそのことを成し遂げて下さる。その約束が与えられたのです。

 

2,信じて実行する

 羊飼いたちは、御使いが知らせたことを信じて直ちにベツレヘムの町に行きました。おそらく信じられなかったらこのようにはできなかったでしょう。仕事を放棄して行くのですから、万が一だめだったなら取り返しのつかないことになったかもしれません。しかし彼らは「主が私たちに知らせて下さった」と信じて疑わなかったのです。危険を冒してまでも、神様の約束「あなた方のために救い主がお生まれになった」ことを信じて行動したのです。そして約束どおり、飼葉桶に寝ているみどりごを探し当てたのです。

 

3,人々に告げ知らせる

 この幼子につい て知らせられたことが現実のものであることを彼らは見、人々に告げ知らせたのです。彼らは黙ってはおられませんでした。まさにそれは大きな喜び希望であったのです。抑えきれない喜びの故に語らずにはおられなかった。それが彼らの姿でした。そのことは 20節にある「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とあるように喜びに満たされていたのです。

 このクリスマスの喜びは今日にまで伝えられています。私たちのためにキリストはお生まれになった。全ての罪・咎をゆるし、永遠のいのちを与えて下さる。天国の希望がある。この事を私たちも心に受け入れ、喜びと感謝をもって神様をあがめる者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「万事、祈り」 エペソ人への手紙 6章18~20節

 年末も押し迫り、慌ただしい時となっています。こんな時にこそ神様の守りの中に自らを委ねて行きたいと願わされます。

 パウロはこの世での戦いは、人との戦いではなく悪魔との戦いであるといいました。目に見えない者との戦いであり、悪魔の試みや誘惑が多くあります。そのためにも「神の武具を身に着けなさい」と勧めがありましたが、今回は祈りについて教えられます。


1,祈りの勧め

 パウロはここで、祈りについて二つのことを勧めています。一つは、「御霊によって祈る」ことです。御霊とは神の霊―聖霊のことです。神は霊であり目で見ることはできません。しかし確実に私たちの心に働かれ、私たちを教え、示し、導いて下さる方です。

エス様は復活され天に帰られるとき、もう一人の助け主、聖霊を遣わすと約束されました。聖霊は私たちを励まし、力を与えて下さいます。祈るときも聖霊は助けて下さいます。お祈りは難しいとよく言われます。私も難しいと感じることがあります。とくに人前で祈るときはそうです。緊張します。どう祈って良いか解らない、そのような時もあります。その時聖霊は働いて下さり「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」 (ローマ 8:26)

祈りは祈ることによってでしかできません。ですから、18節にある「忍耐の限りを尽くして祈る」ことが必要です。何回も何回も祈ることです。また祈りは上手に祈ることが目的ではありません。「すべての聖徒のために」とあるように、自分のためだけではなく、他の人のために祈ることです。聖徒とはクリスチャンのことですが、他の人のためにも祈ることが大切です。

教会では火曜日~土曜日、早天祈祷会があります。そこでは必ず個人個人の名前を挙げて祈っています。それは「すべての聖徒のために」忍耐の限りを尽くして祈りなさいと勧められているからです。でも、神様が祈りに答えられることは非常に感謝なことです。またそれは大きな励みになります。神様は今も生きて働いておられる。祈りが答えられることによって、祝福を与えて下さっておられることが実感されるからです。私たちはますます神様に祈り、祈りが答えられて感謝をささげるものでありたいと思います。

 

2,パウロの願い


 パウロは獄中にあって、エペソの人たちに要請しました。一つは、福音の奥義を大胆に語ることです。福音の奥義とは、キリストの十字架と復活のことです。キリストはなぜ十字架に死なれたのか、それは私たちの罪を赦すためでした。パウロもこの事を信じることができました。ナザレのイエスが私のために死んで下さった。そして、死の中からよみがえられ罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さった。この事を語りたい、伝えたい。自分のために祈って下さいと祈りの要請をしたのです。

 もう一つは、大胆に勇気を持って語れるようにと言っています。彼はそのときローマの牢獄に鎖でつながれ、四人一組のローマ兵に監視されていたのです。それでも福音を語りたい、イエス様の救いを伝えたい。その思いが心の中にみなぎっていたのです。

 決して、自分は牢屋の中にいるからだめだ。自分には力がないとあきらめてはいなかったのです。そして、エペソの人たちの祈りは無駄には終わりませんでした。なぜなら、2000年近く経った今も、福音は語られているのです。そして、困難や迫害があっても大胆にキリストの救いを語っている人たちがいるのです。これは今日も祈りがあり、神様は応えて下さり福音が前進していることの証しです。神様のみわざがあらわされることを信じて私たちも祈りましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「わたしはあなたを愛する」 イザヤ書 43章1~4節

 今日から12月です。もうすぐクリスマスです。プレゼントをもらったりごちそうを食べたり楽しいときです。しかし一番素晴らしいことは、「わたしはあなたを愛している」これがクリスマスの中心的なメッセージです。


1,わたしは贖う


 「贖い」とは難しいことばです。普段遣いません。これは代価を払って買い取る、自分のものにするという意味です。ある牧師先生の証しですが、コソ泥に入られ自分の本が盗まれた。あるとき古本屋に入ると珍しい神学書が入っている、裏を見たら自分の名前が書いてあった。お金を払って買い取った。という話しを聞きました。もう一度自分のものにするという意味があります。

 ヤコブはずるがしこい人でした。彼は兄をだしぬき、父をだまし家の財産を手に入れようとしました。しかしその魂胆がバレて家を出ました。そのような中に、神様に出会いそして彼は信仰を持って歩み、神様からの幸いを得たのです。
ヤコブとして生まれましたがイスラエル―神の皇太子に彼は造り変えられて信仰に生きる人となったのです。


2,わたしはあなたと共にいる

 たとえ火の中水の中、神様は苦しい中、滅びそうになる中にも共におられます。
ダニエル書3章に3人のユダヤの青年が金の像を拝まないことで炉の中に投げ込まれましたが、そこには第4の人の姿が見え、なんと彼らは以前と変わらない姿で出てきたのです。王様は救い出された神をほめたたえ、3人の青年を高官に取り立てたのです。神様は苦しみの中にも共に居てくださり、守り祝福して下さるのです。


3,あなたの救い主

 神様は私たちを救って下さる方です。どんな悩み苦しみ、そして永遠の滅びからも救い出して下さる方です。

 英国に、迷子の郵便配達屋さんと言われた人がありました。
宛名が不完全で届けることができない。そんな郵便物もわざわざ足を運び一軒一軒時間をかけ届けたのです。その家族に待望の男の子が生まれました。そして家族4人で楽しいクリスマスをお祝いしよう、そう思っていた矢先、赤ちゃんは高熱を出し天に召されたのです。彼のショックは大きく鬱になってしまいました。仕事も手に着かなくなりました。

その時、迷子の郵便が届きました。
サンタさんへ、たどたどしい字で、お父さんを直して下さい。天国の赤ちゃんに汽車と車のおもちゃをツリーの下に置いておきます。届けて下さい。
私はプレゼントはいりません。代わりにお父さんをもとのお父さんに直して下さい。マリリンより。とあったそうです。

それは自分の娘さんでした。彼はそれを読み、泣いて悔い改めたそうです。自分のためにお祈りしてくれている。息子は天国の神様のもとにいる。
そして自分のために、プレゼントはいらない。お父さんを直してと言っている娘がいる。彼は自分の不信仰を悔い改め改めて感謝し、なんと癒やされて、郵便配達に復帰したということです。

 神様は私たちを愛しておられます。私たちを慰め、力を与えられます。
神はその一人子を賜ったほどに、私たちを愛され、御子イエス・キリストを信じる者は滅びない、永遠のいのちを得ると約束されています。

 これほどまでに、私を愛して下さる神様を信じ、感謝をお献げいたしましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「人手不足のカギは十字架にある」 マタイの福音書 20章17~28節

 イエス様と弟子たちは過越の祭を守るためにエルサレムに向かっています。

 この道を上り、エルサレムに着くと十字架の受難がイエス様を待っています。
今の場所はエリコで、エリコからエルサレムに上る道の入り口にはヘロデの冬の宮殿があります。また、行き先のエルサレムにはヘロデが立てた神殿があります。
 
 人は目に見える世の富や権力に目を奪われやすいものです。イエス様はご自分が苦難を受け、十字架につけられることを弟子たちに三度も予言しましたが、弟子たちの間では権力の争いが起きてしまいます。 

 イエス様は世の権力者のようであってならないことを弟子たちに言ってから、皆に仕えるもの、皆のしもべになることを教えられます。

  世の権力者のようであってはならないということより、仕え、しもべになることの方がイエス様のポイントだと言えます。もしかしたら、私たちは高慢や出しゃばりを気にしすぎて「リーダー」と呼ばれることを恐れ、ポイントである「皆に仕えるもの、皆のしもべ」になることに欠けていた面があったのではないでしょうか。

  人がいないのではなく、「十字架を負う」人がいないことが今日の危機であると思います。

 イエス様と同じように十字架を負う人々が起こされることをお祈りします。

 

(宣教者:西大和キリスト教会 イー・スノ牧師)

「神に近づく」へブル人への手紙 10章19~25節

 来週からアドベント待降節)に入ります。キリストがこの世に来て下さったクリスマスをお祝いする時期です。22節に「邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められています。

 年末に向かう慌ただしいときですが、私たちの心から世の煩わしさ、焦りや不安を取り除いていただき、平安と喜びに満たされてクリスマスを迎えさせていただきたいと思います。


1,神に近づく


 19節に「こういうわけで」ということばがあります。前節の「罪と不法が赦される」ということばを受けています。罪が赦される不法が赦される、素晴らしいことです。


 明治時代のころ好地由太郎と言う人がいましたが、彼は奉公先の主人を殺し、店を放火しました。死刑の判決を受けたのですが、獄中でクリスチャンとなり後、伝道者となったのです。

 彼は多くの犯罪人を救いに導き、司法省の許可をもらって全国の監獄で伝道したのです。

 なぜ彼は殺人の罪から救われたのか、19節には「イエスの血によって」とあります。
十字架のことです。キリストが自分の身代わりとなって十字架にかけられ、死んで下さった。それを彼は信じたのです。

 彼にとって大きな救いでした。自分の罪が赦される、そして罪の報いをイエス・キリストが全部負って下さる。新しい生き方ができるようになったのです。

 20節にある「新しい生ける道を開いてくださった」のです。それは彼だけではなく、私たちのためでもあるのです。私たちも罪を犯しやすい者です。ついかっとなってことばの暴力を振るうことがあるかもしれません。そんなとき、イエス・キリストが十字架にかかって赦して下さった。そのことを信じるとき、自分からお詫びをすることができる。また相手が暴力を振るってきたときも、キリストの十字架を思い出すことによって赦すことができる。「十字架のことばは滅びに行く者には愚かであるが、救いに与る私たちには神の力です」(Ⅰコリント1:18)

 またキリストは大祭司、神様との間にあって取りなして下さる方です。特に私たちの心、邪悪な良心を、血を流して赦して下さる方です。キリストの十字架によって赦されないことは一つもありません。十字架の血潮によって私たちの心は洗い清められて新しくなれるのです。この事を信じる証しとなるのが22節「からだをきよい水で洗われ」洗礼を受けるということになるのです。洗礼を受けることは自分の罪が洗い清められて新しくなれるという意味があります。


2,互いに励ましあう

 23節に「私たちは動揺しないで」とあります。心が動揺する不安になる。そんなときがあるのです。失敗したり落ち込むことがあります。でも私たちは大丈夫です。希望があるのです。天国に入らせていただける。たとえ失敗過ちがあっても、キリストの十字架の赦しがあり、天国に凱旋できる。「告白し続ける」とあるのですがお互いに励まし合い続けることです。また憎しみ悪意を捨てて、相手を愛する、相手に良いことをすることをお互いに気をつけて励まし合うことです。

 25節にある「自分たちの集まりをやめたりせず」とは礼拝のことでしょう。ユダヤ人たちは「安息日を覚えてこれを聖とせよ」との十戒のことばを忠実に守ってきました。
私たちはキリストのよみがえりを信じて日曜日に礼拝しますが、止めたりせず互いに励まし合い共に集まって礼拝したいと思います。

 なぜならその日、すなわちキリストの再臨―再びこの地上に来られる日は近いからです。私を愛し、十字架にかかり、過ちを赦して下さったキリストが来られる。私たちは期待して待ち望みたいと思います。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「神の武具」 エペソ人への手紙 6章13∼17節

 私たちの生活の中でときおり、不可解な事件や事故が起こることがあります。
不吉な予感がするとか、魔がさしたとか、そのようなことばを聞きます。


1,サタンとの戦い


 この世には人間だけが動いているのではなく、この世を支配するサタン、諸々の悪霊がいるとパウロは言います。

 世界の始めでもサタンはアダムとエバに近づき、とって食べてはいけない、木の実をとらせ、罪を犯させ神様から離してしまいました。それ故、祝福を受けられず汗を流して苦しい労働をし、苦しんで子を産まなければならないようになったのです。苦しみが始まりました。それを解決するためにイエス・キリストは来られました。私たちの悩み苦しみを負って下さり、ご自分のいのちを持って救って下さるのです。他にはいません。


2,サタンに対する守りの武具

 パウロはエペソで獅子と戦ったことがあると言いました。おそらく強靱なサタンとの戦いであったかと思います。戦いには武器が必要です。その当時、主だった町にはローマ兵がいました。誰もが目についていたと思います。その姿を見てパウロは、クリスチャンとして必要な武具について語っています。


①真理の帯を締める。

 帯は武具ではありません。しかし、着ている服がほどけてしまっていると戦えないのです。機敏に動くことはできません。ですから、しっかりと帯を締めて戦う。クリスチャンの戦いは心の戦いです。心理的な戦いです。心が負けると気持ちも弱くなり、力をなくしてしまいます。ですから、心の帯をしっかり締め、相手にひるむことなく向かっていくのです。
心の帯は真理です。真実ほど強いものはありません。真理によって堅く引き締められ、相手に向かって行くことができるのです。


②二つ目には胸当てです。

 胸当ては心臓を守るものです。私たちの心を守るものは正義です。不義を行っていて、悪に向かうことはできないのです。ですから私たちの心は正しいもの正義によってきよく、一点の汚れや曇りがないものにしてもらわなければ、悪魔には打ち勝つことはできないのです。
私たちの心をきよくするのは、キリストの血潮です。Ⅰヨハネ1:7にある「御子イエスの血、すべての罪より我らをきよめる。」のです。


③足には平和の福音を履く。

 兵士の履く靴は頑丈です。どんな荒れ地でも岩場でも、難なく移動できるのです。
靴がしっかりしていなければ戦うことはできません。クリスチャンの履く靴は平和の福音です。平和です。福音とはなにか。良い知らせです。
それはイエス・キリストが、十字架で私の罪を負って身代わりに死んで下さった。赦して下さった。そして死からよみがえられて勝利が与えられる。
キリストは生きておられる。これが良い知らせなのです。キリストによって救われる。この靴を履くならどこにでも行けるのです。


④信仰の盾、

 これは大楯であり悪魔の火矢を防ぐものです。宗教改革をしたマルチン・ルターも悪魔に攻められました。しかし信仰によって勝利し、改革を進めることができたのです。


⑤救いのかぶと。

 かぶとは頭を守るものです。頭がなければ考えることはできませんし、戦うこともできないのです。私たちを守るのは救いです。
自分がよいことをしてクリスチャン、神の子となったのではありません。キリストが十字架で罪を赦し救って下さったからこそ、神の子となることができたのです。
すべてはキリストによると考え自分ではなくキリストが救って下さったと信じることが救いです。私たちの思いや考えを守ります。


3,サタンに対する戦いの武具

唯一の攻撃の武器は ⑥御言葉の剣です。

エス様も悪魔に試みられたときすべて御言葉によって勝利され悪魔を撃退されました。私たちも、日々神様からの御言葉、聖書を読んで悪魔に勝利し、喜びと感謝に満たされて生きる者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「真の利益」 テモテへの手紙 第一 6章3~10節

 今年もあと2ヶ月ほどとなりました。秋になって物価が上昇しています。物も大切ですが、私たちを本当に豊かにしてくれるものは何か。また、私たちに益となるものは何かを考える必要があります。

 結論から言うなら6節にある「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」ということになるのです。


1,真の利益を妨げるもの

 一つは高慢です。高慢になると自分自身がわからなくなる。自分だけがわからなくなるだけではなく、聞く者をもわからなくさせてしまうことがあるのです。(ギリシア語の高慢の原意は「煙に包む」だそうです。)

 3節に「違ったことを教え」とありますが、主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない、明らかに離れてしまったことを教えてしまうのです。
ですから、「高慢」からは、4節にある、議論やことばの争いになってしまい、その結果、人に対するねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。 
この事に関して勝利した聖書の例は天使ミカエルです。悪魔とモーセのからだがどうなったか議論になったとき、相手をののしり裁くことをせず、「主が戒めて下さるように」と言ったのです(ユダ9)。

 もう一つは、お金です。10節に「金銭を愛することが、悪の根だ。ある人たちは金銭を追い求めて、信仰から迷い出、自分を刺し通した」とあります。
第二列王記5章にゲハジというエリシャのしもべのことが記されています。ナアマン将軍の病が癒やされた後、エリシャは何も受け取らなかったのですが、彼はこっそりと後をつけ金品を要求したのです。
しかしエリシャにバレてしまい、ツァラアトの病になり去って行ったのです。金銭を愛することは大きな罠です。

2,真の利益をえるために

 本当の自分の益となることは、5節にある「満ち足りる心を伴う敬虔」であるとパウロは言っています。
敬虔とは、神を恐れることです。全能の神を畏れ神の前にへりくだることです。別のことば言うなら、謙遜です。
高慢とは対照的なことばです。謙遜であるなら、争いは起こらないでしょうし、相手をののしったりしないでしょう。

 神を畏れ神の前にへりくだることが第一なのです。そして、それに伴って満ち足りる心を持つことです。
満ち足りる心とは、衣食があれば足りている、それで満足することです。私たちは腹八分目で十分であり、それが健康の元となります。
欲が出て食べ過ぎると返って病気になってしまうのです。神様は私たちに十分なものを与えて下さいます。たとえ全世界を手に入れたとしても、自分のいのちを損してしまったら何の得にもならないのです。

 ですから、神様は高慢で愚かな私たちに救い主イエス・キリストを遣わして下さったのです。

 パウロもキリストを信じて救われました。彼は律法学者であり、パリサイ人で優秀な人間でした。
しかし、高慢で人と争い、クリスチャンを迫害する人でした。その彼が復活のキリストに出会い、今までの罪過ちが十字架で赦されたことを信じたとき、神の愛がわかったのです。迫害者が愛の使徒に変えられたのです。

 私たちも自分で自分を変えることはできません。しかし、イエス・キリストは私たちを愛し、すべての咎・罪を負って下さる方です。
すべてをキリストに委ね、そして私たちの心を新しくさせていただいて、神を畏れ、与えられているもので満足し、天の御国、神の国を目指して歩みましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)