柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「心の休み場」 マタイの福音書 11章28節

 今はストレスの時代とよく言われます。特に新型コロナウイルス感染の問題が出てきて、交わりが少なくなり精神的にもイライラすることが多くなったのではないかと思います。
家庭でもリモートワークでご主人がいる、子どもが騒いで邪魔をする。家庭内でもトラブルが多くなることがあります。

 

 自分がホット出来る空間、自分の居場所を求めることが必要なのではないでしょうか。心の休み場をどこに見つけるのか、私たちの一つの課題であると思います。

 

1,キリストの招き

 

 ときどき「隠れ家的お店」ということばをテレビで聞きます。芸能人がゆっくりと食事をしたりできる所です。
人気のあまり人目につき、落ち着いて食べられないのかもしれません。いくら豪華な食事でも味わって食べられなければ美味しくはないでしょう。
私たちにも安心できるところが必要です。私たちはどこで自分の安らぎを見いだすことができるでしょうか。

 

 イエス・キリストは、すべて疲れた人、重荷を負っている人はと、呼びかけておられます。そのキリストが招いて下さっておられるところがあるのです。私たちはキリストが招いて下さっておられる所に行く必要があるのです。
そこに行かなければ、真の心の平安、安心は得られないのです。

 

 こんな話を聞いたことがあります。インドネシアボルネオ島カリマンタンのジャングルの奥地に村がありました。そこに住む先住民の人たちは、様々な霊の存在を信じていました。たとえばジャングルでヘビに出会ったら悪いことが起こる。おなかが痛くなる。また、木が倒れていたら災害が起こる。大けがをする。そうした迷信を信じ、言い訳をしてなかなか働こうとしなかったそうです。
日本でも、今日は日が悪いから仕事はやめておこう、といったとこもあります。

 

 ところがそこにキリスト教の宣教師が来て、怖がることはありません。救い主イエス・キリストは皆さん一人ひとりを愛し守ってくださいます。
信じてくださいと呼びかけたのです。そして、おなかを壊している人に薬をあげ介抱し癒やされ、木が倒れていたらそれを道の脇にどかし、整備したそうです。
その姿を見ていた人たちが、宣教師の所に来て話を聞くようになり、イエス・キリストを信じたのです。

 

彼らは変わりました。迷信から解放され、心に平安と力が与えられ、ジャングルを切り開き、畑を作り作物を育て、村は発展していったのです。
その近隣の村の人たちもその姿を見て、さらにキリストを信じる人たちが増えていきました。キリストは、私たちのこころに安らぎを与え、不安を取り除き、気力を与えてくださいます。


2,私たちを助けてくださる

 

 キリストが守ってくださる人は、立派な人ではありません。私が来たのは義人‒正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのである。と言われました。
丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人であるとも言われたのです。すべて、重荷を負って苦労している人はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。これがキリストの約束です。私たちに重荷をおわせたり、苦しい目に会わせることは一つもありません。むしろ私たちを背負って運んでくださる方なのです。
旧約聖書にこんなことばがあります。「あなたがたが年をとっても、白髪になっても、わたしは背負う。なお、わたしは運ぼう。」(イザヤ46:4)と2700年以前も前から約束されているのです。

 

 すべてを信じ、おまかせすることです。

 坂道を一人のおばあさんが重い荷物を背負って歩いていました。車で通りかかった人が見かねて、車に乗せてあげました。
交差点で信号待ちのとき、ふと横を見るとおばあさんは荷物を背負ったままです。
何してるんですか。荷物を下ろしてくださいと言ったら、おばあさんは自動車に乗せていただいて申し訳ありません。
荷物まで下ろしてまではバチが当たりますから。と言ったそうです。

 

乗せた人は、重さは変わりませんので心配しないで下ろしてください、と言ったらおばあさんは下ろして本当に楽になりました。と言ったそうです。
私たちは、自分も荷物もすべて、キリストにお任せすれば良いのです。

 

 キリストは、私たちの心の重荷、悩みをすべて受けてくださいます。そしてどんな失敗や過ちも、十字架で許してくださるのです。
心の重荷をキリストに委ねて、平安を与えていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「日々新しい」 コリント人への手紙 第二 4章16~18節

 以前、アンチエイジングが流行した。残念ながら、どんなに努力しても肉体は衰える。
けれども、感謝なことに、私たちの内におられるイエス様は、私たちを日々新しくしてくださる(16)。


 この「新しい」は「再び新しくする」との意味である。だから、私たちを新しくされる神に向けて生活しよう(18)。

 

① 新しい命。

 

 パウロは「内なる人は日々新たにされ(16)」と教えている。内なる人とは、主イエス様によって新しく生まれ変わった人の内面のことである。

 

 主と交わりを持つ人は、神の愛と永遠のいのちをいただいて、主を愛して生きる、新しい人生を歩み続けることができる。

 

② 新しい富。

 

 パウロは信仰の激しい戦いを経験したが、主からいただく「重い永遠の栄光(17)」と比べるなら、「一時の軽い苦難」と言うことができた。

 

 「永遠の栄光」とは、主からの賞賛、神の御国、主の荘厳さなどである。
私たちも聖書から「永遠の栄光」の価値を知ろう。

 

③ 新しい希望。

 

 パウロは「見えないものに目を留める(18)」という新しい生き方を私たちに教えている。
主は十字架によって私たちを罪の滅びから救い、復活の希望と永遠の御国の希望を与えられた(18)。

 

 そして、私たちと一緒にいてくださる。目に見えない主を、まるで見ているかのようにして、復活の主と共に生きよう。

 

 

(宣教者:北大阪教会 山本敬夫牧師)

「栄光の回復」 エレミヤ書 33章6~9節

 エレミヤは涙の預言者と呼ばれています。それは彼が自分の祖国イスラエル(ユダ王国)がカルデヤ人(バビロン)によって滅ぼされることを人々に語ったからです。
しかし彼がそのことを語った真の目的は神による栄光の回復にあったのです。

 

1,神の立て直し

 

 エレミヤの預言は単にエルサレムが異邦人によって破壊されるだけのことではありませんでした。
 

 この事によってユダとイスラエルを回復させる(7節)と約束されたのです。ユダとイスラエルの回復とは何でしょうか。実は分裂があったのです。ダビデとソロモンの時代はイスラエルが一番栄えていたときでした。しかしソロモンなきあとに、国は分裂しました。それは住民に重い税を課すことが問題となったのです。
ソロモンの息子レハブアムが後を継ぎましたが彼は高慢にも、自分は父よりも偉いと高ぶって税を重くすると言ったのです。もちろん人々は不満を持ちヤロブアムを王として分裂したのです。

 

 実は問題は税金のことではなくて、偶像礼拝にあったと言うことです。
ソロモンは最初謙遜でした。彼は若くして王となり神様にイスラエルを治める知恵を求めました。その願いに神様は応えられて知恵と共に富も権力も与えられたのです。

 

 しかし、後年彼は周りの国々と交易を結び国は豊かになり、それと共に偶像礼拝も入ってきたのです。神殿にまで偶像が持ち込まれるようになったのです。

 

 十戒に私以外の者を神としてはならない。偶像を刻んで拝んではならない、と戒められています。神様との約束を破ったのです。そのことの故に、神様からの祝福(幸福)を受けられなくなり、まさに呪われた者となって愛が冷え、分裂し、ついには滅びに向かうこととなったのです。

 

 それでも神様はイスラエルを愛し、回復と癒やしを与えると約束されたのです。この預言はまだ、エルサレムが滅ぼされる前のことでした。王や指導者たちはなんとか守ろうとして躍起になっていました。ところがエレミヤは滅ぼされる預言したため、監視庭に閉じ込められたのです。
大事なことは、建て直すのは人ではなく神様であることです。創造主なる神様が、建て直さなければ、本当の回復癒やしはないのです。

 

2,神の癒やし

 

 それでは如何に神様は偶像で満ちたエルサレムを回復されるのでしょうか。そのために滅ぼされるという荒療治が必要でした。
偶像礼拝はちょっとやそっとのことで取り除くことは出来ません。身体の病でも、悪いところを取り除かなくてはどんどん広がって行くのです。取り返しがつかなくなります。ですから神様はエルサレムの栄光の回復のために、バビロンによって滅ぼされることを許されたのです。そして70年後に回復されると約束されたのです。

 

 8節には「すべての咎から彼らをきよめ」とありますが新約聖書では「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」と約束されています。
キリストが十字架にかかってくださった。そしてキリストがすべての咎過ちを身に受けてくださり死んでくださったのです。
それは、エルサレム陥落に匹敵しそれ以上のものであると言えます。それ以外に私たちの罪のゆるし、そして恵の回復は他にはないのです。

 

3,神によって与えられる祝福

 

 ことごとく破壊されたエルサレムと、その神殿は再建されます。その記録はネヘミヤ記エズラ記に記されています。それと同じように、私たちの人生もキリストによって新たに造り直されるのです(Ⅱコリント5:17)。
エルサレムは何度も破壊されました。しかし、神様が約束されたように回復しているのです。周りの国々は驚きます。なぜならこの事を通して神様は守られ回復を与え、祝福と平安を与えられるからです。

 

 私たち一人ひとりも、イエス・キリストから十字架によって古い自分が壊されて、新しい人に生きる、信仰を持って歩ませていただきたいと思います。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「信仰の戦い」 エペソ人への手紙 6章10~13節

 私たちは日頃の生活において予期せぬトラブルに巻き込まれたり、不安や恐れにとらわれるようなことがあると思います。様々な原因があると思いますが、一つには、神に敵対しているサタン悪魔の私たちに対する攻撃があると言うことです。


 今日の聖書の箇所では、特に悪魔との戦い、信仰の戦いであるとパウロは、エペソの人たちに語りました。それはまた今日生きている私たちにも語られているメッセージです。

 

1,悪魔の策略

 

 パウロはエペソで伝道しているとき大きな迫害に遭いました(使徒19章)。神殿の模型を作って売っている職人たちが反対したのです。しかしこの事についてパウロは、エペソ6:12で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく」と言っています。
人ではなく、その背後にあって人を操る悪魔サタンとの戦いであるということです。

 

 確かに目に見えるのは、人の妨害や人とのトラブルが実際にあります。しかしその大元は、この世を支配する悪魔サタンです(エペソ2:2)。サタンには闇の世の力があります。そしてこの世を支配しています。悪魔は策略家です。攻撃は単純ではありません。
アダム・エバのときから、巧妙に人に近づき、肉の弱さ、欲望の弱点を突いて心に攻めてきます。アダムとエバは神のように立派になりたい思いがありましたが、悪魔の企みによってだまされ、取って食べてはいけないと言われていた、園の中央にある木の実をとって食べたのです。それはサタンがアダム・エバを神様から離して滅ぼそうとした計略でした。

 

 そのように、サタンは人の心の隙を突いて神様から私たちを引き離そうとするのです。またこの世の支配者たち権力をも使って私たちに戦いを挑んできます。悪魔の策略は巧妙であり、油断できないものです。

 

2,神の武具を身につける

 

 悪魔との戦い、その策略に対抗するためには、神の武具を身につける必要があります。その武具に関しては、具体的に14節以降に出てくるのですが、私たちが悪魔に対抗できるのは、私たちの力や知恵に依るものではないということです。

 

 たとえば、Ⅰサムエル17章に出てくるダビデとゴリヤテの戦いです。ダビデはサウル王の立派な武具を身につけたのではなく、川原で拾った石と石投げで対抗したのです。
向かってくるゴリヤテに対して、石一つでゴリヤテを倒したのです。

 

 ですから、悪魔に対抗するためには人間的な対抗手段を考えたり、特別なものを備えたりする必要はありません。神様は私たちに必要な武具を神様ご自身が備えて下さるのです。心配はありません。

 

3,信仰に堅く立つ

 

 このところで、最も大切なことは何か。それは「堅く立つ」ということです。このことばは11節と13節に2度繰り返して語られています。これは単に自分自身がしっかりして立つというより、堅固な土台の上に立つという意味合いの方が強いと思います。

 

 その土台とは何か。イエス・キリストです。キリストの上にしっかりと立つ。キリストが私を支えて下さる。キリストが私を守り、武具を備えて戦わせて下さる。という信仰です。

 

 ですからパウロは「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と言っています。キリストのうちにある、キリストによって守られている。「神が味方であるなら、だれが敵対できるでしょう」(ローマ8:31)という信仰です。

 

 エペソの教会は偶像崇拝の強い地域にあって、建てられたのです。でも、その信仰の土台はイエス・キリストでした。「これに信頼する者は慌てふためくことがない」(イザヤ28:16)

 

 教会は勝利していったのです。そして今日も福音は伝え続けられているのです。

 

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「主の内に住む」 詩篇 91篇1~9節

 私たちは災害の多い現代に生きています。しかし全能の神様は今も生きて働いておられ、私たちを守ってくださいます。

 

1,神様は私の隠れ場
 

 この詩篇をうたった人は、おそらくエルサレムの神殿で奉仕をしたことがあり、
エルサレムが攻められ、苦難に陥った状況を詠ったのではないかと思います。
そのような中にあっても、神様は「隠れ場」であり、避け所、また砦である。と記者はうたっています。

 

 列王記第二19章では、エルサレムアッシリアの大軍に囲まれたとき、ヒゼキア王は衣を裂き、粗布をまとって神殿で祈りました。そして預言者イザヤに祈りの応援を頼んだところ、なんと一夜のうちに、アッシリアの大軍18万5千人が倒されたのです。
それはまさに、信仰による神の戦いであり、信頼するイスラエルに勝利を与えられたのです。

 

 ですからこの詩人は「私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神」と歌ったのです。

 私の「避け所」と2節にありますが、英語で言えばシェルターです。現在では核シェルターが注目されています。鉄板や分厚いコンクリートで覆われ、ごつごつしたイメージがあるのですが、神様のシェルターは違います。4節に「ご自分の羽でおおい その翼の下に身を避ける」とあります。たとえば羽毛布団を着て寝るようなものです。重たくなく、ふわふわして寝心地がいい、快適で安らぎがある。それが神様の守りです。

 

2,私は恐れない

 

 5節に「夜襲の恐怖も 昼に飛び来る矢も」とありますが、ウクライナはロシアの軍事侵攻を受け、ミサイルで民間のアパートも攻撃されて、まさに現地の人は恐怖の中にいることと思います。日本でも、北朝鮮からのミサイル発射で、携帯の緊急アラームが鳴ったことがありますが、ある人は戦時中の空襲警報を思い出した、と言われました。生きた心地がしない、休まらないのです。しかし神様は「あなたは恐れない」と言われます。
なぜならその前の4節で「主の真実は大盾 また砦」と約束されているからです。神様は絶対に、信頼する者を守ってくださる。それが約束です。

 

 6節7節の出来事は、出エジプト記にあるエジプトで起こった最期の災いである、と言われています。それは王を初め奴隷、果ては家畜に至るまで初子が殺されるという災いでした。エジプト中で叫び声が上がったのです。
しかし、柱と鴨居に子羊の血を塗ったイスラエルの家には災いは来ませんでした。過ぎ去って行ったのです。

 

 その子羊の血は、十字架で流されたイエス・キリストの血潮を現していると思います。私たちもキリストの十字架によって、罪が赦され、救いに与るのです。

 

3,神を自分の住まいとする

 

 なぜ、神様はイスラエルを災いから守り、そして救われるのか。それは9節に理由が述べられています。「主を 自分の住まいとした」からです。

 

 主、つまり神様が自分の住まいである。自分の住むべき所である。そこで生活し、生きると言うことです。

 

 信仰のことばで言うなら、神のみ声を聞き、神に求め、語り合うことです。それは具体的には日々の生活の中で、少しずつ聖書を読み、また声に出して祈って行くことではないでしょうか。
それが神様を自分の避け所とし、自分の住まいとする。神の中に自分は生きる。と言うことではないでしょうか。

 

 神様にすべてをゆだね、信頼し、お任せして、平安を与えていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「手をあげて」 出エジプト記 17章8~13節

 今日の個所から祈りについて教えられる。

 

①信仰を表明する。

 神様はモーセの上がっているその手を見ておられた。手を上げるということは信仰の表明。その手を神様は見ておられた。信仰の具体的な表明というものを神様は大切にされる。私達も信仰の表明をするなら神様はそれを見られ、そこに働いて下さる。

 

②祈り続ける。

 手を上げればイスラエルが勝ち、下げるとアマレクが勝つ。という事はアマレクの方が強いと言う事。だから手を上げ続けなければならなかった。

 私達も同じように問題の方が、私の解決能力よりも大きい場合がある。だから祈り続ける。
悪魔は私達が祈りをやめるのを待っている。また、祈り続けないと罪の誘惑に勝てない。モーセが手を上げ続ける事によってアマレクを撃退したように、私達も祈り続ける事によって敵を撃退する。

 

③協力して祈る。

 モーセが石の上に腰掛けていて、両側からアロンとフルが手を支えている。ある意味無理やりに手をあげさせられているだけ。しかし神様はモーセが人の手を借りている事を問題にされなかった。祈りとは多くの人の協力によってできるもの。

 モーセとアロンとフルの3人が支え合って手を上げている姿があるべき祈りの姿。
手を上げているモーセだけではなく、それを支えているアロンとフルも、祈りに加わっている。

 

(結論)
 私達の前にも問題や困難、自分自身との戦いというアマレクがいる。だからこそ祈らなければならない。

 

(宣教者:国分福音教会 丸本 浩牧師)

「私たちの希望」 ピリピ人への手紙 3章20~21節

 今日は召天者合同記念礼拝ということで、ご遺族の方々も共に礼拝に出席して下さり感謝します。先に天に召された方々の写真を並べ、在りし日の姿を思い忍ぶと共に、私たちに生きる希望を与えて下さる神様に感謝をささげたいと思います。
 
 「私たちの希望」と題してメッセージを語りますが、ここに3つの大切なことがあります。

 

1,私たちの国籍‒天国市民権

 

 私たちの国籍は天にあるとパウロは言いました。私たちの最終的に行くところは天国です。死んだら一体どこに行くのだろうか、私たちは不安におもうかもしれません。しかしキリストを信じたら天国に行ける。天国の市民権が与えられている。
これは大きなことです。

 

 パウロユダヤ人でしたが、ローマの市民権を持っていました。ですから、不当逮捕されても釈放される、最期には皇帝に直訴する、そのような権利が与えられていたのです。

 ですから私たちもイエス・キリストを信じることによって、天国の市民となることが出来るのです。そしてキリスト共同の相続人、天国を受け継ぐことが出来る。そこに永遠に生きることが出来るのです。

 

2,キリストが迎えに来られる

 

 私たちが地上の生涯を終えるときに、キリストが迎えに来られます。
「キリストが救い主として来られる」とありますが、ヨハネ14章3節に「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と約束されているのです。

 

 私たちの力で天国に入るのではなく、天国にキリストは私たちを迎え入れて下さる。
ですから、イエス・キリストを信じるなら、死の恐れはなくなります。イエス・キリストは救い主、私たちを天国に導いて下さる方です。天国から来られて、私たちを天国に連れて行って下さるのです。ですから、この方を信じる。ただこれだけのことです。

 

イエス・キリストは「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われました。

私たちのすることは、ただイエス・キリストを信じる、信頼してすべてをお任せすることです。そうするなら、私たちは天国に入ることが出来るのです。

 

3,栄光の姿に変えられる

 

 では、私たちは天国でどのように生きることが出来るのでしょうか。
21節には「私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えて下さいます。」と約束されています。

 

 私たちの身体はピークを過ぎると衰えてきます。体力がなくなり、記憶も定かではない、自分自身が情けなくなってしまうこともあります。しかし天国ではそうではありません。病気もありませんし、衰えることもありません。私たちは変えられるのです。復活されたキリストの栄光の体と同じ姿に変えられます。

 

 私たちが自分を変えようと努力するのではなく、キリストご自身が私たちを変えて下さるのです。「万物をご自分に従わせることさえできる」とありますが、ガリラヤ湖で突風が吹き船が沈みそうになったとき、キリストは風と荒波をしかりつけ静まったことがありました。(ルカ8:23~25)

弟子たちは「風や水までが従うとは、いったい故お方はどういう方なのだろうか」と驚きましたが、万物をも従わせうる力をもっている方です。その力によって私たちを変えることが出来るのです。

 

 力と訳されていることばはエネルギーという意味があります。キリストはエネルギーを私たちの内に与えて下さいます。

ですから、神様が約束してくださっている希望は失望に終わることはありません。
私たちを天国の民として迎えて下さり、キリストが迎えに来て下さる。卑しいからだをも、キリストの栄光の姿に変えていただける。この希望を持って信仰を持って歩んでまいりましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)