柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの先駆け」ヨハネ1章19ー28節

クリスマスを前にしての待降節の中にありますが、キリストを待ち望むことは素晴らしいことです。夢があり、希望があります。さしずめクリスマス・プレゼントを待つ子どものようです。それ以上に素晴らしいものをイエス・キリストは私たちに与えてくださるのです。


1,キリストの先駆け

救い主であるイエス・キリストが現れる前に一人の人がまず知られるようになりました。それは、バプテスマのヨハネです。彼は、ヨルダン川の向こう岸のベタニヤというところで人々にバプテスマを授けていたのです。おそらくその数は少なくはなかっただろうと思います。何千あるいは何万という人たちがバプテスマのヨハネの所に来たでしょう。
多くの人がヨハネの所に行くので、ユダヤ人の指導者は心配したことでしょう。それで、祭司とレビ人―神殿で神に仕える信頼できる人をヨハネのもとに使わしたのです。そして、尋ねさせました。「あなたはどなたですか」と、ヨハネは「わたしはキリストではありません」とはっきり答えました。キリストはメシア―救い主のことです。救い主とは、王様でもなければ預言者でも祭司でもありません。それは、全能の神であります。私たちを救いうるのは、神以外ではあり得ません。人間は、不完全なものですし、そのようなものが人を救うことはできないのです。
さらにバプテスマのヨハネは、自分はエリヤでもなければ預言者でもないと答えました。ちなみに、ユダヤ人たちはメシアが来られる前は、エリヤが来ると信じていました。エリヤとは旧約聖書に出てくる預言者です。彼は偶像を崇拝するバアルの予言者たちと戦い、イスラエルに勝利をもたらしました。そして彼は、死ぬことなく生きたまま火の戦車に乗って天に携えあげられたのです。それで、ユダヤ人はエリヤが再び地上に来ることを信じていました。
そしてイエス・キリストは、バプテスマのヨハネがエリヤの再来であることを語られました(マタイ17:12)。ユダヤ人たちは気がつきませんでした。バプテスマのヨハネラクダの毛衣を身にまとい、皮の帯を締めイナゴと野密を食べて生活していたからです。およそユダヤ人たちのエリヤに対するイメージがかけ離れていたのでしょう。しかし、バプテスマのヨハネは、キリストの先駆けとしてこの世に来たのです。


2,ヨハネの目的

彼は、それでは何だったのでしょうか。彼自身が答えています。「荒野で叫んでいる者の声です」と。これは2700年以上前に、メシアの到来を預言したイザヤの言葉です(イザヤ40:3)。彼の目的は、「主の道をまっすぐに」することでした。彼は荒野で、罪の赦しのための悔い改めを宣べ伝えていたのです(マルコ1:4)。そして全国から、続々と人がバプテスマのヨハネの元に集まり、バプテスマを受けたのです。
バプテスマは元来、清めの儀式に用いられるものでした。特に、ユダヤ人でないもの(異邦人)がユダヤ人となる―ユダヤ教に改宗するときに、バプテスマの儀式を受けたそうです。
しかし、ヨハネは、ユダヤ人たちにバプテスマを授けていました。それでユダヤ人の指導者たちは驚き、使いをよこして「なぜバプテスマを授けているのですか」と尋ねたのです。彼らにとっては大変不可解なことでした。バプテスマのヨハネは、異邦人がユダヤ教を信じることよりも、悔い改めのバプテスマ、すなわち、神に立ち返り罪を赦していただくことをすべての人に語ったのです。それは、私たちにも同じです。私たちもまた、真の神様、私たちを救ってくださる方、罪を赦して下さる方、救い主イエス・キリストに立ち返らなければならないのです。


3,ヨハネにまさる方

彼はさらに、「あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っています」と語りました。それはイエス・キリストです。ヨハネにまさる方であり、ヨハネは「荒野の声」であり消えていきますが、イエス・キリストは「生ける神の御言葉」であり永遠におられる方です。その方はすでにあなた方の中に立っておられると証ししたのです。その方は、私たちの間にも立たれる御方です。私たちの知らない間に、私たちと共におられ、私たちを悪しき者から守り、私たちを天の御国へと導いて下さる御方です。この方が共におられるなら、私たちは恐れることはありません。たえず平安のうちにおらせていただき、救い主が共におられる喜びがあるのです。そして、それがクリスマスです。「神我らと共にいます」インマヌエルの主が私たちと共におられるクリスマスを心から喜ぶものとさせていただきましょう。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)